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時々想うこと… |
自立してから、ほとんどスキーで生活し、人生のほとんどをスポーツの世界で生きて来たわたしですが、時々考えることがあります。
それは、『評価というのは、ほんとうは何なのだろうか』ということです。
フリースタイルスキーというのは主観的要素が入る採点競技で、評価は順位で出ます。
水泳は、まったく主観的要素が入らないスポーツで、評価はタイムと順位で出ます。
フリースタイルスキーやフィギアスケートには表現力が求められるため、水泳や陸上競技のような競争とは異なるところがあります。それは競技者と観客との
関係性とでも云えるもので、あたかもニュートン力学と量子力学の違いのようなものとも考えられます。それは、演技者と観客の間にある関係性であり、そのに生まれる相互作用です。つまり観る人が、現実を変える可能性があるということです。
スポーツとは少し違う話かもしれませんが、現代社会ではテレビや新聞というマスメディアによって評価(価値観)が創出され、その評価による順位付けが社会に対して押しつけられているように感じることがあります。
資本主義社会の権力や力というのは『お金』と同じ意味ですが、権力者が創り上げたい世界を実現するために、テレビなどのマスメディアを使って、価値観や世界観を創っていると感じてしまうことがあるのです。
ローマ時代からスポーツは政治に利用されてきました。今回のヴァンクーバーオリンピックを観ていても、同じようなことが今でもおこなわれていると感じてしまう瞬間がありました。
日本代表選手たちの発言も、強い指導を受けていることを、感じさせるものばかり。かつては、自由奔放な発言で驚かせてくれたり、楽しませてくれたりする選手がいましたが、今回そんな選手たちは存在しませんでした。
いつだったか、中学生か高校生の頃、とても恐いSF小説を読んだことがあります。
その世界では、ほとんどの人間が奴隷なのです。ごく一部の支配者に使われています。彼らは仕事を終えると、ヘルメットのような映像・音響機器を付け、映画を観るのです。そのヴァーチャルな世界で、奴隷たちは自分たちがヒーローになった世界を体験し、ヴァーチャルな世界のなかで、『生きている幸せ』を感じるのです。
映画『マトリックス』にも、同じような恐怖が描かれていました。
そんな人間の生き方は、もしかしたらとても現実に近いのでは…と感じてしまうことがあります。
もうずいぶん昔のことですが、「普通に満足する心 」というエッセイを書いたことがあります。
そこで、わたしは「何もたいしたことをせず、特別の野心もなく、ふつうに生きて満足できることこそ、魂のレベルが高いのでは…」と書きました。
たまたま競争の多いスポーツの世界に生きてきたり、資本主義という競争のなかで生きていたりしますが、ほんとうは競争原理を超えたところをめざしたいという気持ちが、ずっと自分にはあります。
競争原理を超えることは難しい。それは知っていますが、そんな世界を目指したいと長い間願っています。
そうするために、資本主義社会のなかであるなら、やはり何にお金を使うかがとても重要になるのでしょうね。
今朝、久々のパウダーモーグルを滑りながら、こんなことを考えていました。
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