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マーラーとわたし |
高校一年生だった十五才からマーラーを聴き始め、早いもので四十年がすぎました。
これまで辛いことや耐え難いことがあるたび、マーラーに救いを求めてきました。マーラーの音楽にすがりつくようにして、生きてきたような気がします。そして、何かを求めるたび、彼の音楽はわたしを勇気づけ、助けてくれました。そんな感謝の気持ちで、このページを綴ってみます。
一部、マーラーのページの文章と重複するところがあることをご了解ください。
角皆優人
2010年6月 |
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マーラーの音楽に初めて接した時の驚きを、今でもよく覚えています。
何度も繰り返される「生は暗く、死もまた暗し」というフレーズに、震えるような、しびれるような感覚を味わいました。その時、マーラーの音楽は大きな魅力と共に、どこか恐ろしさや不思議さをも同時に感じさせるものでした。
初めてマーラーを聴いたのは、十五才の夏。
それは、わたしが人生で初めての挫折を経験した難しい時期のことでした。
水泳というスポーツに心底打ち込んでいたのですが、体を壊して泳げなくなってしまったのです。十才から泳ぎはじめたわたしは、小学校時代に市で一番となり、中学で県のトップ選手の一人となりました。正直オリンピックに出場するには厳しいレベルでしたが、まだまだ夢を捨てきれずにいた頃のことです。
トレーニングをしすぎてプールで倒れ、医者に運ばれました。そこで診断を受けると、こう言われました。
「しばらくは安静にして、体育の授業にも出てはいけない」
体の不調は倒れる一か月以上も前から感じていました。しかし、当時のわたしは単純にも「強い意志さえあれば、何でも乗り越えられる」と信じていたのです。学校という社会でうまく生きてきたわたしでしたが、大きな挫折を味わい、それまでに培った人生観では生きられなくなりました。
正直に言えば、自殺も考えたほどです。
毎日、学校へ行くふりをして家を出ると、徒歩で山に出かけました。
わたしの通っていたのは群馬県にある高崎高校という学校で、観音山という岡の麓にあります。岡といっても複雑に入り組んだ奥深いところです。空中写真を見ると、襞のような尾根が幾重にも連なり、人跡未踏の場所も多く残っています。化石で有名な奇勝『千人隠れ』や、洞窟のなかで枝分かれした防空壕や、炭坑の跡などもあり、尽きない興味を与えてくれました。特に『千人隠れ』という場所は、オーバーハングした巨大な絶壁で、ずっと『仙人隠れ』と書くと信じていたほど神秘的な場所でした。
毎日のように観音山に入り、獣道を歩きました。夏の盛りになると、たくさんの蛇に遭遇しました。蛇に出会うたび、彼らがとても愛おしく感じたことを覚えています。なぜなら、蛇は人に嫌われているから。わたしも挫折から自己嫌悪に陥り、人から嫌われる立場になったと感じていたのです。
当時わたしの心は奇妙にひねくれた形をしていました。権威や社会的価値観に、大きな不信感を持ったり、アイドルなどの有名人や人気のある政治家を極端に毛嫌いしたり…。当然、音楽の世界でいちばん反感を持ったのはヘルベルト・フォン・カラヤンでした。一九七十年当時、アンチ・カラヤンはまだ少数派の頃のことです。
今からふり返ると、たくさんの誤解や未熟な思い込みから生じた苦悩でしたが、当時のわたしにとっては重く、真剣な問題でした。
初めての行き詰まりで、どうすればいいかもわかりませんでした。そんな時、もう一つの体験がわたしに追い打ちをかけたのです。
たまたま出席していた数学の授業中のことでした。突然「こんな内容ばかり勉強していると、自分はダメになってしまう」という強い感情に襲われたのです。
「頭ばかり使っていて、感情をおろそかにしすぎている」と感じました。数学と言っても記憶力に頼るような数学で、ほんとうに頭を使っている気がしませんでした。人間にはさまざまな能力があり、それぞれの能力を鍛えるべきなのに、わたしの場合、身体と記憶力ばかりを鍛えていて、感性や倫理をまったく鍛えていないと感じたのです。
それは直感でしたが、あまりの強烈さにめまいがするほどでした。
それ以来、わたしは進級するのに最低限必要な授業にだけ出席し、多くの時間を山や川を歩くことに費やしました。精神的な放浪をしていたのかもしれません。無意識のうちに、山や森に何か答えを求めていたのかもしれません。たまに授業に出ると、教科書と関係のない別の本を読んでいました。本の多くは、クラシック音楽家の伝記だったり、ヘルマン・ヘッセの小説だったりしました。
『車輪の下』という有名な物語からも知れるように、ヘッセはわたしと同じように学問への不信を感じていたのでしょう。
『デミアン』や『荒野のおおかみ』という小説にも、学校教育への疑問や不信が描かれ、独特の世界観を築いています。それらに強く惹きつけられました。
挫折するまで、人生はわたしにとって美しく、健康で、明るい姿をしていました。しかし挫折後の人生は醜く、病んで、暗いものに変わったのです。
そんな時、マーラーの『大地の歌』に出会いました。
レコード店でたまたま東洋画の描かれた白いジャケットを手に取ると、一楽章に付けられた『現世の寂寥を詠じる酒宴の歌』というタイトルが読めました。それだけで、当時のわたしを振り向かせるに十分だったのです。
家に帰り、慎重にレコードに針を落とすと、冒頭の和音が炸裂。音の中に圧縮された怒りのようなものを感じると同時に、音楽から滲む悲しみや諦め、それらがわたしを震撼させたのです。
「生は暗く、死もまた暗し」というフレーズが繰り返されるたび、全身を身震いが走りました。
それまでも音楽に圧倒されたことはあります。ベートーヴェンの5番、7番、9番などに、強く心を揺さぶられたことがあります。モーツァルトの40番や 41番、ピアノ協奏曲20番などにも、強く惹きつけられたことがあります。しかし、あの時のマーラーほど、圧倒的な何かで、わたしの心を鷲づかみにした音楽はありませんでした。聴いている間中、全身が震え、鳥肌が立ち続けたのです。初めて聴いた『大地の歌』は、その場でわたしを虜にしてしまいました。
家のみんなが寝静まると、ヘッドフォンを付け『大地の歌』を聴く毎日が続きました。数ヶ月に渡って、音楽は圧倒的な力でわたしを惹きつけました。ところが、惹きつけられているにもかかわらず、曲を聴くと時に不安になったり、悲しくなったり、苦しくなったりしたことを覚えています。
初めて聴いた『大地の歌』はブルーノ・ワルターとニューヨークフィルのレコードでした。今にして思えば、あれがキャサリーン・フェリアの歌うウィーンフィルのレコードだったなら、もっと劇的な物語になったのでしょう。しかし現実はニューヨークフィルの演奏で、それを毎晩聴き続けたのです。
高校二年になり、バーンスタインとウィーンフィルのものを手に入れました。奇数曲を女性でなくフィッシャーディスカウが歌うレコードで、バーンスタインの止めどない情熱と、フィッシャーディスカウのいとも冷静な知性が、不思議なコントラストを醸し出す演奏でした。
あれ以来、四十年に渡ってさまざまな『大地の歌』を聴いてきました。そんな中で、今でもわたしのベストはワルターとニューヨークフィルの演奏です。ショルティも好きですし、シノーポリも愛聴しています。クーベリックのライヴ盤(1970年録音)も良く手に取りますし、カラヤンも好きな演奏に数えられます。もちろん、ワルターのウィーンフィル盤も素晴らしいです。ところが、いつまでたってもベストはあのワルターとニューヨークフィルなのです。音楽に、もし刷り込み効果というものがあったなら、このレコードこそわたしの魂の深いところに刷り込まれているに違いありません。
『大地の歌』でマーラーに目覚めたわたしですが、その続きは簡単に行きませんでした。
高校一年でクーベリックやバーンスタインの交響曲1番を聴き込みましたが、ほんとうに好きな曲なのかどうか疑問でした。1番にかんしては大学生になりテンシュタットのライヴ盤に出会うまで、手放しの賛美を待つことになります。
5番は比較的うまく行きました。理解しやすい曲の創りもあるのでしょう。『大地の歌』に続き、疑問を持つことなく素直に惹きつけられました。最初に聴いたのはクーベリック。それからショルティとバーンスタイン(ニューヨーク)を聴き、決定的に愛着を感じる曲となりました。
人生を通して思い出深い5番の演奏としてショルティ、シノーポリ、ラトル、そしてカラヤンなどがあります。どれも今でもよく聴いています。
6番も高校時代に好きになった曲です。しかし当時は聴くたびに少し不気味さを感じていました。後年6番で目が醒めるような体験をしますが、高校時代は6番を聴いて、その中途半端な理解のところで止まってしまったのです。
一時期マーラーを聴くのを止めてしまった理由は、長い曲が多いこともあげられます。しかし2番や9番などを聴くと、理由もなく強い不安感にとらえられ、最後まで聴き続けられなかったというのがほんとうのところでしょう。よく「1番と2番は問題なくクリアする」と言われますが、高校時代のわたしは2番で躓いてしまったように記憶しています。しかし不思議なことに「誰の音楽が好きですか」 とたずねられるたび、必ず「マーラー」と答えていました。
大学に入ったわたしは、不思議なきっかけでフリースタイルスキーをはじめました。そしてたくさんの幸運が重なり、あっという間に全日本選手権の優勝者となりました。そんな頃、突然のようにマーラーの人気が高くなり、レコードショップに行くと、今まで捜すことすら難しかったマーラーの棚に、たくさんのレコードが並ぶようになりました。この現象に、「嬉しいような、悲しいような」気持ちになったことを覚えています。時には「恥ずかしい」気がしたことさえあります。それはわたしにとって、マーラーが心の奥にあるプライベートなところを刺激する作曲家だったからかもしれません。
大学時代はよくテンシュタットのレコードを聴いていました。交響曲はすべて買い、毎晩のように聴きました。今は同じものをCDで持っています。
在学中、全日本選手権に立て続けに優勝すると、スキーヤーとして生きていこうと、大学を辞める決心をしました。少し笑える話ですが、この頃トレーニングに行く前マーラーの8番の第一部を聴いて気合いを入れるというようなこともしていました。
大学を辞めてからの選手活動は、最初は順風満帆でした。
世界的な大会で二位になり、翌年には優勝し、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。そんなスキーヤーとしての絶頂期、わたしは大怪我を負ったのです。二回宙返り二回ひねりの練習で、飛距離が出すぎて着地点を飛び越え、平らな所に落ちました。高さ十数メートルのところから雪に叩きつけられ、右ひざを壊したのです。
入院生活は半年以上の長さになり、なかなか前に進めませんでした。
そんな過程でカラヤンやブラームスに目覚めたり、人生を考え直したり、さまざまな心の変化に見舞われました。入院中、幸運にも狂ったり鬱になったりしなかったのは、ただただ病院で聴き続けたブラームスのおかげでした。音楽が唯一の慰めであり、救いであり、それが正気をつなぎ止めてくれたように記憶しています。
やがて怪我の後遺症を残しながらも、わたしはスキーヤーとして復帰しようと決意しました。そして、本格的なリハビリに入ると、ふたたびマーラーがわたしを支えてくれることになったのです。
「高校の時と、まったく同じだ」
水泳の挫折をマーラーが救ってくれたように、スキーの挫折もマーラーに救われるのだという不思議な感慨を持ちました。
長い、長いリハビリの期間中に、カラヤンのマーラーをたくさん聴きました。まずカラヤンの5番に惹かれ、他のたくさんの指揮者の演奏も聴くようになりました。
6番を聴いた時のことです。カラヤンの6番の4楽章に、天啓を受けたかのごとく何か特別なものを感じたのです。高校時代から6番が好きで、理解していると思っていたのですが、この時、理解できる次元が変わったことを感じました。カラヤンで聴く6番に、一種の『悟り』のようなものを感じたのです。それは以下のような感覚でした。
「やりたいことを徹底的にやって、それでダメになっても、それでいいじゃないか」
それは納得のいく敗北とでもいうのでしょうか。現実的な成功というもの…社会的に認められたり、金銭的に評価されたりする成功というもの…を得られなくても、素晴らしい人生というのは存在するということを感じたのです。ある種の諦観と呼べるかもしれません。
カラヤンの6番は、それほどすっきりとして美しく、まるで俗界から解脱したように輝いていました。
取り憑かれたように、さまざまな演奏家の6番を聴きはじめました。
当時はそれほどショルティの6番は好きでなく、テンシュタットのライヴ盤に惹かれました。あれから三十年がすぎた今、カラヤンと共にショルティは大好きな指揮者の一人になっています。
少し余談になりますが、カラヤンのマーラーを良く言わない人がたくさんいます。わたしは元祖アンチ・カラヤンのような過去を持っていますから、気持ちはよくわかります。しかし、深刻な怪我を経験し、どん底でカラヤンのマーラーに救われた者として、付け加えておきたい内容があります。
マーラーの6番には、恐ろしい悲劇があります。そして『悲劇』は、時に人間を押しつぶしてしまったり、時に人間を立ち上がらせたりもします。6番や9番は演奏によっては、人間を鬱や自閉に追い込む可能性があるほど深い曲です。底まで墜ちたわたしにとって、6番が救いであるためにはカラヤンのような演奏が必要だったのです。
リハビリの期間中、テンシュタットを聴いて、ほんとうに死にたくなったことを想い出します。
6番に続いて9番にも目覚めました。
カラヤンにはスタジオ録音とライヴの二種類の9番がありますが、最初はスタジオ録音盤を聴いていました。それからリハビリ期間中に発売されたライヴ盤を聴き、圧倒されたのです。高校時代、まったく理解できなかった9番ですが、カラヤンのライヴ盤に深く惹きつけられました。
大怪我と二度の挫折なくして、9番を理解できたかどうかには、今でも疑問が残ります。きっと怪我をしなければ、自分とは無縁な曲だったのではないでしょうか。
9番は不思議な曲です。自分の心の状態によって、途轍もなく悲しい曲に聴こえたり、時に限りなく優しい曲に聴こえたりしますから。同じ曲がある時は絶望を、ある時は慰めをもたらしてくれるのです。
好きな演奏に、インバルの録音もあります。インバルの9番はなぜかレントゲン写真のように、曲に含まれているすべての要素を見せてくれるように感じるのです。時に曲に潜ませた秘密まで教えてくれるような響き。インバルのショスタコーヴィッチにも言えることですが、作曲者が隠そうとしていた意図までも、暴いてしまうように感じることがあります。また9番と言えば、バーンスタインのベルリンフィル盤も触れずにいられない演奏でしょう。晩年のバーンスタインは、わたしには重すぎることも多いのですが、やはり避けられない演奏という点で認めざるを得ないものです。
リハビリ期間中はカラヤンのライヴ録音に惹かれていましたが、最近はスタジオ録音盤を愛聴していることも書いておきましょう。もしかしたら、ライヴ盤のような美を、今のわたしは必要としていないのかもしれません。
2番に惹かれたのも、この頃でした。
2番は高校時代に買ったバーンスタインのニューヨークフィルのレコードを聴き直し、強く惹きつけられるようになりました。その後、ショルティの2番にいっそう惹きつけられるようになります。
スキーの怪我のおかげで、この時点でマーラーの半分くらいを理解できるようになりました。
ちなみにフリースタイルスキーに復活したわたしは、復活第1戦で大失敗したものの、その年の全日本選手権では総合優勝することができました。それ以後、引退までの四年間、日本国内では無敗を記録しました。
四十才をすぎてから、ギルバート・キャプランという指揮者の存在を知りました。
キャプランは大学生時代に初めてマーラーを聴いたそうです。カーネギーホールでストコフスキーの指揮した2番ですが、それを聴いて圧倒的な感動に襲われ、茫然自失状態で立ち上がれなくなったそうです。曲に魅せられ、いつか自分でこの曲を指揮したいと願いましたが、音楽家への道を歩みはじめるには年齢が高すぎました。そこで実業家として成功し、ゆっくり夢を叶えるという道を選択したのです。
実業家となったキャプランは指揮法を学び、オーケストラと合唱とソリストを雇い、自らの指揮で2番の演奏会を実現します。
一回きりなら金持ちの道楽と言えますが、キャプランはその後、ショルティに師事し、各地のオケで着実に演奏回数を重ね、一九八七年にはロンドン交響楽団を指揮して CD を発売します。これが爆発的なヒットとなり、メジャー・オーケストラへの客演やザルツブルグ音楽祭への出演と、クラシック音楽界の王道を歩むようになります。ついにはウィーンフィルハーモニーとのCDを発売するまでに至るのです。
キャプランを動かした何か。それと同じものを、わたしも感じ続けてきました。
マーラーの音楽が、「自分の人生の一部であり、自分自身の一部であるという感覚」。マーラーの音楽に支えられ、それに生かされ、それに生きるという体験です。
五十五才の今、マーラーのほとんどの曲が好きになりました。
しかし、時々こんなことを考えます。「ほんとうにマーラーの音楽を理解したり、共感できたりするのは幸せなのだろうか」と。
数々の怪我と苦しみを経ずして、わたしの場合、マーラーを理解することはできなかったでしょう。もしかしたら、こうした曲を理解できないまま生きる方が、ずっと幸せなのかもしれないと思うことがあります。マーラーの音楽には深い悲しみや苦しみ、人生の悲喜劇が練り込まれているのですから。
ショスタコーヴィッチの音楽にも言えることですが、マーラーを聴くと、人間社会の醜い面や、非条理な面、暗く悲しい面に否応なく目を向けさせられます。深い孤独、尋常ならざる誇り、喜びや悲しみ、怒りや嫉妬。それらを知らずして、これらの音楽を理解することは難しいでしょう。
十代のわたしはそうした感受性の予感に、心のどこかで共鳴していたように思います。そんな感受性の先に、果たして何があるのでしょうか。
二十世紀も終わりに近づき、地球温暖化をはじめとする環境問題ということが言われはじめました。それに伴い「人類が地球を破壊する寄生生物」であるかのような考えも比較的一般に知られるようになりました。
若い頃からわたしは、心のどこかで「人類の存在はガン細胞のようなもの」ではないかという疑問を持ち続けてきました。その後、ガン細胞からエイズウイルスのような存在に変わっても、心のどこかで「人間であることの後ろめたさ」を感じ続けています。
百五十年も昔から、マーラーの音楽やヘッセの文学には、「人間であること」への根源的な問が含まれています。
もしかしたら、世界の多くの人がマーラーを理解したなら、地球温暖化問題や環境問題は早い解決を見せるかもしれません。気づきをもたらす意味でも、マーラーは現代のわたしたちに、大切なことを語りかけているのではないでしょうか。世界を少しでも良きものにするために。 |
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