Torino Olympics

トリノ・オリンピック

 ■2006年2月16日

 トリノ・オリンピックということもあり、毎日大量のスポーツニュースが流れている。 
 それらを見るにつけ、どこか的はずれに感じるのはわたしだけだろうか?
 先日、友人と一緒にあるテレビ局のトリノ中継を見ながら、思わずこんな言葉を発してしまった。
 「日本人の求めているトリノ中継は、ほんとうにこうした次元なのだろうか?」
 言葉の裏側には深い落胆と、同時に少しの嫉妬があった。
 たぶん、ほとんどの日本人が望むからこそ、そうした放送が繰り返されるのだろう。
 わたしが少数派であることは間違いない。
 ただし、どこまでスポーツの本質をえぐれるのかは別の話だ。スポーツは闘いだけでもなければ、エンターテインメントだけでもなければ、勝敗や順位がすべてでもない。しかし、いっぽうでスポーツが、順位や勝敗と深くかかわっていることも事実である。なかには真剣勝負として、命がけで臨む選手もいる。
 ドラマが生まれやすいのは、それだけ思い入れの大きな人たちが、巨大なエネルギーを持って集まり、真剣勝負が行われるからであろう。

Matti Nykanen オリンピックの標語は「より速く、より高く、より強く」。
 そんな標語を意識してか、「より若く、より美しく、より健やかに」という視点をとるTV局が多く、レポーターやアナウンサーにも若手が起用されることが多い。選手の扱いも、まるでアイドルか、もしくは英雄崇拝を思わせる単純なものだ。
 もっと突っ込んだ物言いをすれば、報道関係者すべてが「オリンピックは最高善」であるとする放送態度に問題がある。日本にはそんなステレオタイプの放送が繰り返される見本がある。それは皇室報道である。皇室にまつわるすべてが「至上善」であるという放送アングルが、すべてを嘘に見せてしまう。少なくともわたしには嘘で虚の世界にうつる。同じことが、オリンピックの実態から現実を引き離し、夢物語に変えてしまう。
 同じ線上で、こうも考えられる。
「ロハスな生き方を応援する」人が、「オリンピックを好き」というのは矛盾しているのではないか。
 あたかもオリンピックのすべてが善で、ロハスや未来へつながっていると考えるのは危険なことではないだろうか。
 オリンピックというイメージが作られるのは各TV局内だけでなく、日本国民全体の意識のなかだと思う。
 国民意識が変わらないのなら、日本の競技レベルはこれからも墜ち続けるに違いない。政治家と有権者の関係がそこにある。
Matti Nykanen
 優れたスポーツ選手にはきわどいラインを辿る人種が多い。
 彼らのなかにはタレント的な資質に富んでいるものが多く、マネージャー的に優れていたり、プロデューサー的な資質に優れていたりするものは希である。つまり、スポーツ選手には探求者や求道者や、ヒーローやヒロインにはなれるけれども、社会的活動や他人軸の行為には疎いものが多い。
 選手を引退してからも、すぐれた選手のなかに波瀾万丈な人生を送るものが多いのは、そんな性格からではないだろうか。
 ただでさえ、きわどい道を歩く選手たちにとって、今のマスコミのあり方は、より危ない方向を指しているように思えることがある。

 わたし自身の体験からいうと、ほんとうに素晴らしい滑りをした後、いつも心が現実から引き離されるように感じた。
 強烈な体験(奇跡的滑りをした経験)はたった二回だったけれど、そのたびに現実から興味を失った。あの頃、なぜそうなるのかわからなかった。しかし、今のわたしには少しだけわかるような気がする。それはたぶん、奇跡的な演技が持つ、強烈な『静謐感』であろう。奇跡のなかで、時間はあくまでもゆったり流れ、すべてがみごとなほどに絡み合い、調和する。競争という要素がみじんも存在しない世界。それは一般の人たちが思うスポーツの世界から遠く離れている。すべてがあるがままで、完璧な世界。黙想の世界に近いとでも言えるだろうか。今の世の中とは遠く、隔たったところにある世界。
 ほんとうに頂点に立つ選手だけが、あの世界のことを知っていた。

 近頃、成績よりも、どこまであの世界に踏み入ったのかを、選手のなかに見ようとする自分がいる。現在のマスコミは、そんな世界から積極的に選手たちを遠ざけているように感じられてならない。みんなが経験できないからといって、理解しがたいからといって、それが価値なきものであるかのように、あたかも存在しないかのように扱うことは、恐ろしいことに感じてしまう。
 それは自ら意識せず、スポーツの深部を隠そうとする行為となってしまうのだから。
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