愛国心について

里谷多英、もうひとつの戦い

 長野オリンピックで優勝(モーグル)した里谷多英が、初めて参加した海外の競技会はノースアメリカンカップである。通称ノーアムと呼ばれるこの競技会は、アメリカとカナダ選手が中心に参加するもので、ワールドカップに直結するレベルの競技会として位置づけられている。
 1992年1月、15歳だった彼女はカナダ、ビーバーバレーでの競技会へと出発した。若く、初めての海外旅行ということもあり、大きな夢と期待を秘めての出発だった。成田空港での彼女はどこか楽しそうで、うきうきしていたことを、わたしは覚えている。

 選手たちのリーダー格はアルペンスキーから転向した本間篤史。トロントで借りたレンタカーは、髪をリーゼントに固めた彼のナビゲーションで、順調に宿舎にたどり着いた。
 トレーニングを開始し数日がすぎ、ようやく落ち着いてきたのではないかと予測されるころ、里谷が体調不良を訴えはじめた。それは便秘や下痢という症状からはじまり、滑りの不調へつながり、やがてホームシックを基調にした鬱状態へと発展した。
 体調不良や精神的混乱は決して珍しいものではない。それどころか、海外の試合に参加するほとんどの選手に見られるものである。そのため、こうした変調をいかにして克服するか。それが競技成績を左右すると言っても過言ではない。
 それまで、日本の海外試合参加は国内最高選手によるワールドカップのみ。
 海外試合初体験がいきなりワールドカップ。それでは「大舞台に弱いのもあたりまえ」という意見が、当時のコーチたちに強くあった。そのためノーアム参加選手を選考するに当たっては、その基準として競技成績のみでなく若さと将来性ということが大きく考慮された。
 選手たちは国内を成田空港まで移動したのち十二時間を越える空の旅を体験した。
 トロント空港からは地図が頼りの心細いドライブ。
 時差と寝不足に加え、言葉や食事の違いが彼らを襲った。そのため、ストレスに対処できない選手は次々と体調不良に陥ったのである。
 里谷はこうした変調にごく自然に対処していったように思う。彼女の自然体はひとつの才能だといってもいい。それは意図的なものではなく、もって生まれた天性とも呼べるものだ。嬉しければ歓び、悲しければ泣き、疲れたら休み、眠くなれば眠る。
 選手として成功するためには競技会以外の巨大なストレスと戦わなければならない。それは島国であり、単一民族であり、単一言語の国である日本人にとって、他のどんな国の選手よりも大きく、困難な障壁となる。そんなストレスを自然体で乗り越える里谷の能力は、新しい日本人として必要とされる国際的感受性に裏打ちされているようにも感じられた。

 ゴールドメダルを取った直後、表彰式で帽子をかぶったままであることを批判された里谷。わたしは彼女の非常識を問う前に、彼女に自然な国家への感謝の情を生み出せなかった日本という国のあり方を問うてみたい。
 かつて黒人のメダリストが黒い手袋をかかげ人種差別に抗議したオリンピックがあった。そこには世界に訴えるべき直接的な意図があった。しかし、里谷の帽子事件で彼女にそうした意図はまったく存在していない。それにもかかわらず、彼女の行為は日本教育システムへの警告となっているのではないだろうか。なぜなら、日本には社会常識を教える場が、存在していないのだから。

 人間関係や社会での生き方を、両親からも学校からも学ばずに成人する子どもたち。そこには未来の日本を危うくする種がないだろうか。加えて、すでに危うい現状が多く見うけられていると言えないだろうか。
 現在、世界のさまざまなスキー場で、日本人のマナーの悪さが訴えられている。そして、ロスアンジェルスの日本人会では、マナーの悪い日本からの若者が問題視されている。
 里谷の帽子事件を、起こした側の問題ではなく、起こされた側の問題として、謙虚にとらえ、そこから学ばないかぎり、これからの日本が里谷以上の選手を生むことはむずかしいだろう。権威や縦型の規則でルールを強制するのでなく、心に自然にあふれてくる国や社会への敬愛の情を育てることが必要であろう。それなくして、日本人による国際的活動や国家的規模での活動に、多くを期待するのはむずかしいだろう。
 国家に対する精神的基盤を作ることなく、個人を批判する姿勢。それが、現代のさまざまな青少年問題を生んでいると、わたしには思えてならない。
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