昔書いたエッセイより
「角皆優人のフリースタイル道・第二十六回」より 雑誌 Skiing 掲載原稿より

二十一世紀のスポーツ
 採点スポーツには、いろいろな疑惑がついてまわる。フィギュアスケートしかり、フリースタイルスキーしかり。そのため、『いっそのことオリンピックから外してしまえ』という声すら高い。しかし、人間の判断とは、それほど頼りないものなのだろうか。ここでは、審判によって採点されるスポーツの意味を考えてみたい。
 フリースタイルスキーは、三種目からなりたっている。そのすべてが、ジャッジによる採点競技である。人間が、その目で見、判断をくだすものだ。しかし、人間に間違いはつきものである。問題が起こることや、不満が残ることは決して少なくない。ワールドカップで、正式な抗議文書が提出されることは多々あるし、選手がジャッジに批判的態度をとることも日常茶飯事である。
 こうした採点競技は、二十世紀になり急に増えてきた。そして、二十世紀が終わろうとする今も、その人気は高まり続けている。フィギュアスケート、新体操、シンクロナイズドスイミング、などである。そこで、今回は、ジャッジが採点するスポーツについて考えてみたい。

 まず、フリースタイルスキーのオリンピック参加への道を振り返ってみよう。採点競技であるフリースタイルは、ここでたくさんの障害に出会ってきた。
 その第一歩は、一九七九年のFIS加入ではじまった。これにより、それまでプロ・スポーツだったフリースタイルはいったんアマチュアスポーツに戻された。なぜなら、当時オリンピックはアマチュアのみに許されたスポーツだったからである。日本でも全日本スキー連盟への加入が推進され、アマチュアへの復帰が叫ばれた。並行してワールドカップツアーが敢行され、二十数カ国が参加。こうした世界的な運動によって、ようやく、一九八八年カルガリー・オリンピックにおける公開種目化が実現した。バレエ、モーグル、エアリアルという3種目共の参加だった。
 一九九二年のアルベールビルで、モーグルが正式種目として認められることになる。この時、他の二種目は公開種目であった。また、一九九四年の今年、リレハンメルでエアリアルが正式種目に加えられた。
 FIS参加からモーグルの正式種目化まで、なんと十三年の年月が必要だった。オリンピック参加に必要な参加国数をクリアーし、世界的な人気を博し、スポーツとしての体制を確立したにもかかわらず、である。これほどの時間を必要としたのは、『フリースタイルは採点スポーツである』という問題だった。 『目で見て判断するスポーツは、オリンピック種目にふさわしくない』というのが、その主な理由だった。たとえば、よくもちいられる例えにフィギュアスケートがある。これほど人気のあるフィギュアだが、もしも現在オリンピック種目でなければ、これからの正式種目化は不可能だというのである。人間が判断するスポーツは、争いのもとだという。自国の選手に高得点を出す審判の姿は、よく見られるところであり、現実に国際紛争まで起きているのだ。だから、すべて排除したい。それがオリンピック委員会の意見だった。フリースタイルスキーにおいても、バレエ競技はまだ正式種目になっていない。理由は「採点が感性に頼った競技であり、もっともフィギュアスケートに近いスポーツだから」という。
Ballet
 いったい、人間が判断することは、それほどまでに危険なことなのだろうか。こうした問題を考えることは、裁判による死刑の判決に似ている。それは『人間が人間を裁けるのだろうか』、という問題でもあるからだ。また反対に、『それほど人間は信頼できないのか』、という疑問も生じてくるのではないだろうか。

 高名な経営コンサルタントである伊吹卓氏は、人間の能力が段階的に進歩するとして、次のような分類をされている。

 第一才能…記憶力
 第二才能…発想力
 第三才能…判断力

 第一才能は記憶力、理解力、いわゆる理性的なものであるという。そして、第二才能の発想力は、第一才能の土台の上に立っているという。たくさんの情報収集と、理論的構築があってはじめて発想が生まれるという。そして、第三才能である判断力は、第二才能の土台に立っているという。つまり、たくさんの発想を繰り返し、現実との軋轢を経験したのち、ようやく判断力が身についてくるというのである。つまり、こうした能力は階層をなしており、第一を経なければ第二は生まれず、第二を経なければ第三の判断力は身につかないというのだ。しかし、もし第一才能にばかり頼っていたなら、学校では優秀でも、社会ではあまり成功はできないだろう。また、第二才能にばかり頼っていたら、決してほんとうの意味で、生きることはできないだろう。 こう考えると、現代ほど第三才能が必要とされている時代は、今までなかったのではないだろうか。記憶力ばかりにたよった教育は、第二才能である発想力と、それに続く判断力を殺している。こうした事実は、政治を見てみればよくわかるだろう。自分で判断することが、どれほど大切なことか、そしてどれほど難しいことかが理解できるはずだ。また、経済を見てみればよい。その場しのぎでない、信念や方向性が、いかに大切なことかがわかるはずだ。
 こう考えると、『採点スポーツ』は、選手を裁くのではなく、ジャッジ自身のレベルを裁くスポーツなのだということが見えてはこないだろうか。それは、人間自体のレベルを、あからさまに露呈する。選手だけではなく、審判自身も大きく問われるスポーツなのだ。だからこそこうしたスポーツが、現代の人々に求められているのではないだろうか。自分自身で判断し、行動し、その結果に責任を持つ。そんな人間像が、ここから生まれてくる。採点スポーツは、そんな人間を育てるために生まれてきたのではないだろうか。そこでは選手だけでなく、すべての審判が主役である。そして、すべての観衆も、また主役なのだ。生きてゆく一人一人が、主役となり、自分自身で考え、判断し、行動する。
 そこにこそ、新しい時代が見えてはこないだろうか。
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