My Favorite Ski Essays
Masahito's Essay
(メインタイトル)Masahito_2002
 

(サブタイトル)
わたし自身の物語


  1979年の全日本選手権で、わたしは人生で初めての全日本チャンピオンというタイトルを手にした。以来1980年、81年と連続優勝を果たし、その結果マスコミにも注目され、他人の視線と強烈な闘争心を意識するようになっていた。

 これはその頃、わたしが経験したできごとである。
 たぶん、実際は数分に満たなかったに違いない。しかし、このできごとはわたしの生き方を大きく変えた。体験の前と後で価値観は転換し、生命は違う顔を見せるようになった。

  このできごとを伝えるためには実際におこったことだけでなく、そこからおよそ一年という期間をさかのぼって説明しなければならないだろう。なぜなら、積み重ねられたたくさんの出来事が、あたかも階段となり、徐々にその体験へと導かれていったように信じられてならないからである。

  1981年11月。
 スキーシーズンを目前にして、わたしはカナダでのトレーニングから日本に帰ってきた。そして毎年スキースクールの一員としてシーズンをすごしていた宮城県鬼首スキー場へと向かった。
 シーズンの早い、雪の多い年だった。
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 この時のわたしにはひとつ不安があった。それは『ヒザに故障がある』というもので、わずかだがヒザの奥に痛みがあったのだ。一年以上も前から気づいてはいた。しかし、それは深刻に感じるほどひどいものではなく、「いつか直るだろう」くらいのものだった。しかし、シーズンがはじまって間もなく、不安が現実となりはじめた。限界スピードで大きなコブにぶつかる時、ヒザはゆるんだ蝶つがいのように震え、痛みが走るようになった。
 バレエ種目ではなおいけなかった。空中での速いスピンから着地すると、ヒザは思わぬ方向に揺れ、痛みに涙すらにじむようになった。
 しかし、わたしはこの痛みを素直に信じるわけにはいかなかった。 Night Photo
「明日になれば、少しは腫れがひくだろう」
「一日休めば、痛みは消えるに違いない」
 そんなことを考えながら、だましだまし滑っていた。
 一週間がすぎ、二週間がすぎ、ヒザの痛みは耐え難くなっていった。悩んだすえ、わたしは東北自動車道を東京に引き返すことにした。ヒザが、アクセルの微調整にも痛んだことを、今も覚えている。

 振り返ってみると、当時のわたしは全日本選手権三連覇という自負にあふれていた。しかも、夏のカナダでは国際大会にも優勝し、世界でもトップレベルだという気負いがあった。そのため態度は不遜で、扱いづらい人間だったに違いない。

 検査を受け、必要なら手術したいと思っても、年末のあわただしい病院はなかなか取り合ってくれなかった。
 若かったわたしは苛立ち、苦痛のなかで取り乱し、病院の待合室で大きな声を出したこともあった。

 全日本スキー連盟から病院への連絡の後、ようやく年内に検査してもらえることが決まった。
 そんな矢先、夜もふけてからヒザが突然に痛みだしたのだ。見るみる腫れていった。驚くべき速さだった。気がついた時にはグロテスクなまでに変容したヒザ。そして、泣き叫びたいほどの苦痛。クリスマスの夜にしては残酷な仕打ちだった。
 国立市にあるアパートの小さなキッチンに片足で立ち、震える指で119番をダイアルした。動くこともできずに待つと、思わぬほど早くサイレンの音が響いてきた。

「ひどいな、こりゃ。動くんじゃないぞ」
 こうして、クリスマスの夜、担架で救急車へと運ばれたのである。
 大声で泣きたいほどの苦痛。しかし、絶望に声もなかった。そして、異常に現実感がなかった。
 国立市から立川の救急病院へ向かい、細い裏道を曲がるたび、右ヒザはギシギシと音を立てた。まるで水でふくらませたバレーボールのようだった。そんな現実を目の前にしながらも、自分のヒザが動かないなど、わたしには信じられなかった。信じる訳にはいかなかったのだ。なぜなら、わたしにとってスキーはすべてだったから…。それ以外に生きる術を知らなかったから…。だからこそ、まるで夢の中のできごとのように感じられたのである。

 救急病院での応急手当の後、入院すると『急性化膿性関節炎』と診断された。珍しい、やっかいな病気であるらしかった。こうして、半年以上に渡る入院生活がはじまった。

 入院当初、四十度を超える熱が十日間以上も続いた。そのため連続した意識を保つことは難しかった。時間はぼやけた輪郭を持ち、遅くなったり速くなったり、時に消えたり、薄れたりしながら進んでいた。
 どこかで、「四十度以上の熱が二週間も続くと、脳細胞が破壊され廃人になる」と読んだ記憶が蘇った。
 皮肉なことに、部屋の窓からは、精神病院が見えた。

 毎日のようにヒザの洗浄がおこなわれた。ヒザ関節に注射針を差し込み、洗浄液を入れ、それを抜き取るのだ。
 ある時ヒザの洗浄中、関節から大きな黒い固まりが飛び出した。それはぶよぶよとした握りこぶし大の固まりだった。その固まりを見ていると、突然それがわたしに向かって大きく目を見開いた。真っ赤に血走った大きな目玉だった。
 ぎょっとして天井に視線を移すと、小さな金属製の虫がゾロゾロと壁をつたっていた。
「セ、センセイ、目玉が…」
「落ち着くんだ。君は高熱が続いて幻覚を見やすくなっている。気持ちをしっかりと持ち、『それは幻覚なのだ』と自分に言い聞かせなければいけない」

 わたしは峠を歩いていた。そそり立つ断崖に刻まれた細い道だった。鋭い絶壁と荒い岩肌が目に痛い。しだいに道幅は狭くなり、山肌に張り付くようにしなければ前に進めなくなった。とても疲れていた。もう動きたくなかった。しかし、なぜか「歩き続けなければいけない」、そう感じられた。道は険しさを増し、苦痛は耐え難かった。わたしには谷底が恋しかった。そこには緑の木々があった。茶褐色のザラザラした岩に比べ、それはいとも柔らかそうに見えたのである。落ちてしまえば苦しみから逃れられる。
 意を決し、わたしは虚空へ飛んだ。すると突然、空中で気がついたのだ。
「落ちてはいけない。どうにかして這い上がらなければいけない」、と。
 わたしは手足をばたつかせ、無我夢中でもがいた。すると、平泳ぎをするように動いたなら、空中をはい上がれることに気づいたのである。

 目覚めると全身がびっしょりと濡れていた。
 しかし、この夢を契機に、わたしは危険な時を乗り越えた。高熱は去り、回復に向かいはじめた。
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 炎症がおさまり、ようやく手術を受けることになった。そして、長い長いリハビリがはじまった。
 十二月末の入院時、ふとももの太さは六十センチ近かった。それが、六月の退院時には二十八センチだった。自分の腕のほうが五センチ以上も太かった。ヒザ関節の前後に細く骨が伸び、どこを探っても筋肉らしきものに触れることはできなかった。
 歩くことができないため松葉杖をついてプールに通った。水を抵抗にしたトレーニングをおこなうためである。そして、資金も底をついてきたためスイミングスクールでアルバイトをはじめた。生徒を泳がせ、自分も泳ぐ。そして、レッスン終了後にもう一度泳ぐという生活が繰り返された。
 約二ヵ月半で大腿は四十センチ近くにまで回復。まだ走れない自分が最初に選んだ本格的トレーニングは自転車だった。
 スイミングスクールへの出勤まえ、夏も終わりの狭山湖を走った。
 国立市のアパートから狭山湖まで、わずか三十分。そこには東京とは思えない深い森と湖があった。緑に囲まれた木製の家があり、天気のよい日には穏やかな老夫婦が庭にたたずんでいた。
 二つの橋にはさまれたアップダウンに富んだ湖畔の道を、わたしはただひたすらに走り続けた。それはたった独りの自分との対話だった。あるときは希望に震え、またあるときは絶望に泣いた。張りつめられた心の糸は何度も切られ、そのたびに結び直された。しかし、諦めにいちばん近づいたのも、この時期だったかもしれない。なぜなら、筋肉は再生したが、ヒザが曲がりきらなかったからである。ヒザの可動範囲が、三分の一程度少なくなっていた。自転車のペダリングですら痛みを伴うことが多かった。ヒザ角が九十度を越えると苦痛で、無理に曲げたなら腫れ、数日間は動かせなかった。大きなストロークを必要とするモーグルでは致命傷だった。バレエやエアリアルでも、その苦しさは予想がついた。もう無理だと信じられても不思議はなかった。その方が、ずっと自然だったかもしれない。

 モーグルでの吸収動作を夢に見た。それはハイスピードで目前に巨大なコブが迫ってくる夢。
 深い溝に囲まれてそそり立つコブ。そこに向かい覚悟を決め、トップからぶつかるのだ。一瞬力を加えてから脱力して吸収。襲ってくる激痛に、目覚めると全身がこわばっていた。
 エアリアルの着地シーンも夢に見た。それは三回宙返りからわずかに回転オーバーしてランディングする夢だった。重心が後ろに引けての着地。転倒を避けるため腰を落として耐えると、ヒザ関節が深く曲げられる。目覚めると呼吸が荒かった。

 やがて秋が来た。
 木々は色を変え、狭山湖に紅葉がめぐってきた。秋から冬に向かって、黄色や深紅の枯葉が舞うなかをわたしは走り続けた。A Photo
 スキーシーズンに備え、スイミングスクールのアルバイトも止めた。 二十代も後半だというのに、収入はなく、貯金もわずかだった。
 絶望から抜け出すのにはありとあらゆる感情が必要であるらしかった。どれだけの感情に耐えられるのか、それを試されているようだった。実体のない感情という存在が、これほど力を持っているなど、今まで想像したこともなかった。怒りや憎しみが、トンネルを抜けるようにわたしのまわりをすぎていった。希望や絶望が心に染み入り、その色を変えて去っていった。

 雨の日も風の日も、わたしは感情のトンネルを走り抜けた。そして、老夫婦はようやく、わたしの顔を覚えてくれたらしい。走るわたしに、笑顔で手をふってくれるようになったのである。
「もしかしたら、今までのわたしは異様な形相で自転車に乗っていたのではないだろうか…」
 ふと、そんな想いにかられたことがある。ちっぽけな闘争心に支配されたわたしの顔は、彼らの声援をどこかで拒絶していたのではないだろうか。時がすぎ、たくさんの想いがすぎて、ようやくあの老夫婦がわたしに手を振れるような表情になっていったのではないだろうか。

『…べつに勝てなくてもいいじゃないか。できるところまでやれば、それでいいじゃないか。自分自身で選び、自分自身のためにやっていることなのだから。まず、自分の心と体を大切にしよう。自分自身との対決ではなく、自分自身と和合することが大切なのだ。これは粗末にした自分の心と体と、仲直りしていく過程なのだから…』

 狭山湖を走りはじめたのは緑豊かな季節だった。やがて自然は色を変え、天には冬の気配が漂いはじめた。
自然が変わってゆくように、わたしの心も変わっていった。モザイク模様をなす枝の透き間から深い空が見えるように、今まで気づくことのなかった何かが透け出し、わたしに見えはじめていた。

BoldTree
 一九八二年十二月。
 わたしは立っていた。底無しの新雪に包まれた頂きにただひとり。
 猛吹雪の去った朝日に、大気中の水分が凍り、きらめいていた。
 天神平スキー場の山頂。
 手を伸ばせば届くところに、白い谷川岳があった。反対方向には赤城山と榛名山があった。そこはわたしが生まれたところで、目を凝らすと高校時代さまよった観音山や烏川さえ見えるように感じられた。
 絶壁が縁をなす頂きに立ち、わたしはスキートップで新雪を空中にほうり投げては見入った。まるで小麦粉のような雪が日光に輝き、ありとあらゆる色に変わるのだ。見上げるとどこまでも続く空。大気は澄み、清氣に満たされていた。

 意を決し、わたしは絶壁から体を投げ出し、スタートした。
 舞い上がる雪、雪、雪。雪は腰から胸を吹き上げ、万華鏡となって踊る。
 スピードが増していく。風は頬をすぎ、胸の奥深くまで入り込んだ。地球という惑星の引力に引かれて加速する。からだが上下に動く。上下動がリズムとなり、リズムはターンとなった。
 長かった入院生活。苦しかったリハビリ。何度となく味わった絶望。熱っぽい興奮。すべてが風の中に飛んでいた。
 鈍痛の住むヒザも、曇天に舞う雪も、すべてがいとおしかった。さまざまな想いが狭山湖の枯葉のようにわたしのまわりで踊っていた。
Snow
 気がつくと、わたしは雪になっていた。
 わたしは雪であり、雪はわたしだった。
 雪は地表を貫通し山々となり、山々はわたしだった。
 雪は大気に浸透し、遠く宇宙の果てまでも広がっていた。
 天空であり、同時に大地だった。
 強烈な自由の感覚が、わたしを通して天と地を貫いていた。わたしには境界がなかった。わたしは世界中のあらゆるものであり、同時にあらゆるものがわたしだった。
 スキーを続けてきたのはこのためだったのかもしれない。このために、わたしは苦痛に満ちた体験を必要としていたのかもしれない。なぜなら、大地は苦痛に満たされているのだから。それを知るために自分の体という自然を破壊し、再生してこなければならなかったのかもしれない。
 すべてのものの姿が変わりはじめていた。すべてが生きていることに気づいたからである。動物や植物ならず、存在するありとあらゆるものが生きとし生けるものだった。

 深々とした一体感のなかで、世界は今までよりずっと意味深く、愛しいものに変わり、時間は限り無い姿を見せてくれる。しかし、世界が痛みを持っていることも事実だった。それを変えられるのは、わたしたちのみであることも事実だった。
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