Windsor
スキービジネスの三十年をふりかえって
角皆優人のフリースタイル道・第56回から

 ある有名スキーヤーメーカーの営業を三十年近くも勤めた方が、次のように話してくれた。
「昔は月に二十台もスキーを売れば、りっぱな営業マンだった。そうすれば、当時にしてはいい給料とボーナスまでもらえた。ところが、今はその五倍売っても話にならない。たいへんな時代になったものだ」
 これを聞いて、わたしは自分の父の言葉を思い出した。なぜなら、まったく同じことを、スキー業界とは関係のない父から聞いたことがあるからである。
 わたしの父は時計の卸業を営んでいる。一九六十年代のなかばに会社をおこし、高度成長時代の波に乗り、事業を拡大した。当時、日本中に問屋街という卸業のエリアが作られていたが、その発祥地とも言える群馬県高崎市に店をかまえ、数年ごと店を拡大する勢いだった。

 わたしが小・中学校のころ、時計屋は街の最先端をいっていた。だれもが輝く腕時計や宝石を見つめ、おしゃれな店にあこがれたものだった。
 それが、いつごろからだろうか。時計はスーパーのような量販店でたたき売られるようになった。そして、気がつくと、『時計屋さん』と呼ばれる街の小さい店のほとんどが姿を消していた。
 わたしが高校生から大学生になるころ、街のスキーショップは若者のあこがれだった。そこには冒険と自由の香りが立ちこめていた。特別の用事もなく、スキーさえするわけではないのに、わたしたちはよくそんな店にたむろし、夢を呼吸したものである。

 大学に通いはじめるころ、キャンパスのまわりにはたくさんのしゃれたスキーショップがあった。六、七軒はあっただろうか。当時、本格的にスキーをはじめたわたしは、授業よりもそんな店で時間をすごすことのほうが多かった。ところが、スキーショップはコンビニや洗たく屋に代わり、大学を辞めるころには一軒を残してすべて消えてしまった。その一軒も、数年前に姿を消した。
 見渡せば、きれいな時計屋も、しゃれたスキーショップもつぶれ、巨大スーパーとチェーン展開する量販スポーツ店のみがある。

 確かに、街の時計屋は値引き率が低かった。そして、小さなスキーショップもそうだった。現在の量販店に行けば九割引きという時計もざらにある。そして新製品のスキーが五割引で買える。
 時計に関して言えば、最初から九割引きで売ろうという魂胆で値札をつけているものも多い。これらは香港経由のゲリラ商品で、時計業界ではあたりまえの商法となっている。スキーでも割引価格を決めてから定価設定しているものがある。キャップスキーと呼ばれる新製法で作られたという名目で、実は古い中身にプラスティックをかぶせただけという商品もある。しかし、ほんものを見分ける眼力のないわたしたちは、そんな値引き札に引かれて買ってしまう。
 考えてみれば、わたしたちは『より安く』を追求して、小ぎれいな時計屋をつぶし、夢のあるスキーショップをつぶしてきた。かわりに、ごったがえし、戦場のような安売りの場を生み出してきた。
 それに加え、買い手としてだけでなく、売り手としてのわたしたちも変えてきたといえる。つまり、すべてが薄利多売となっている今、働いても働いてもだれも利益が得られない状況を作り出してしまっている。それに追い打ちをかけるように競争の激化が見られる。まさに、現在のスキー界と時計業界はそうした泥沼に沈んでいる。

 ここで、不満を言うのは簡単だ。しかし、より安く、より早くを求めたのはわたしたちではなかっただろうか。わたしたちの方向性が、結局は自分自身にまわって帰ってきているのではないだろうか。確かに、より安いほうがいいだろう。より早いほうがいいだろう。しかし、これからはそうした方向性が、どこに我々を連れていくのかを考え、それを心から望んでいるのかどうかを判断しなければいけない時代ではないだろうか。

 わたしは量販店でせわしく買い物をするよりは、落ち着いた専門店で楽しみながら買い物をするほうが好きだ。そして、ざわついた空間で大きく値引きをされるよりも、ゆったりと流れる時間とサービスに価値を置きたいと思っている。それはわたしが売る立場になっても同じことだ。しかし、それには低い値引き率と、高い人件費を認めなければならなくなる。
 いつかまた、月に二十台スキーを売るセールスマンが、トップセールスとしていい給料をもらい、立派なボーナスを取れる時代が来るといい。しかし、それを望むことは、一時期の嵐のようなスキービジネスではなく、小さな灯のようなスキービジネスのあり方を認め、それを支えようと努力することでもある。
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