Salt Lake Olympics
2002年2月28日
Kirsty
 ソルトレイクには一つ辛い思い出がある。
 それはかつてソルトレイクにおいて、ワールドカップチームを選考した時のことだ。
 選手選考において、連盟の一方的権威で、正当な手続きを踏んでいない選手を参加させるという事件が起こった。この事件が契機となり、それまで明るく、前向きで、和のあった日本チームは大きく変わってしまった。
 その出来事は、選手の心にコーチへの不信を生み、コーチの心に連盟への憎しみを育てた。そして、簡単に解決することのできない、深いわだかまりを作った。
 今回のオリンピックに、わたしはあの時と同じようなわだかまりを感じている。

 わたしが感じている問題はふたつある。
 一つはオリンピックそのもののあり方。巨大産業となったオリンピックは、果たして単純に賛美されるものなのだろうか。それともオリンピックのあり方はスポーツの未来に対して、危険をはらんでいるものなのだろうか。
 長野オリンピック直後、男子モーグルで優勝したジョニー・モズリーはわたしに次のように語ってくれた。
「FIS(国際スキー連盟)やIOC(国際オリンピック委員会)のやり方を長い目で見た場合、スポーツの未来を暗いものにしてしまうのではないだろうか。フリースタイルスキーという自由で革新に満ちたスポーツを、既存のスポーツのようにルールでがんじがらめにしてしまったなら、それは本来のフリースタイルスキーでなくなってしまうだろう」
 そんなモズリーと二人三脚で進むコーチのクーパー・シェル。彼とは共著を記したことで、ずいぶん深い話し合いを持ったことがある。そんな彼が、今回のオリンピック・モーグル競技直前、わたしに次のようなeメールを送ってくれた。
「五輪というシンボルは今、スポーツの進化を妨げる鎖を表し、IOCがオリンピックという犬を引く首輪を表している。それをうち破るのはほんとうに難しいことだ」
 ジョニー・モズリーがナショナルチーム・コーチのもとでトレーニングをせず、あえてクーパーとのコンビネーションで競技を続けているのは、目指しているゴール自体が異なっているからであろう。
 モズリーは入賞を逃した。そして、競技直後、次のように語った。
「メダルは取れなかったけれど、驚くほどいい気分だ。あの演技(ディナーロール)ができたことで、メダルを取ったのと同じくらい気分がいい」
 四位に終わったもののアメリカ国内の話題をさらったモズリー。
 彼の第2ジャンプはまったく新しいもので、ルール上、かろうじて規定に違反しない。
 彼が披露したジャンプは、オフアクシス(軸ずれ)を起こしながら七二〇度回転する3Dと呼ばれるものだ。それは、ちょうどかつて体操の塚原光男選手がトランポリン競技から月面宙返りを体操に持ち込んだように、フリーライドという新しいスポーツからモズリーがモーグルに持ち込んだものである。
そんな彼をパシフィック紙が次のように評している。
「モズリーはフリースタイルスキーに『自由』を求め続けている。モーグルが進化し続けることを望んでいる」
 こうしたスポーツを生かそうとする革新が、そのまま評価されるオリンピックであったなら、オリンピックの価値はより高まるのではないだろうか。そして、スポーツ自体もより成長できるだろう。
 わたし個人として、テレビから見る限り、ジョニーの金はなかったと感じている。現在のモーグルルールからすると、やはりヤンネ・ラハテラの金が順当だと感じている。しかし、ジョニーの2位、もしくは3位はあったかもしれないとも思っている。ジョニーの第1エアまでの滑りはこの大会中、群を抜いたものだった。そして、もちろん第2エアも。

 ソルトレイク・オリンピックに感じられたもう一つの問題。それは、アメリカのナショナリズムである。
 このオリンピックではアメリカ・ナショナリズムの熱狂が、ショートトラック(スケート)やハーフパイプ男子だけでなく、多くの種目でアメリカ選手の高得点につながってしまった。それは審判の不正疑惑と絡まり、大きな問題となってクローズアップされた。もちろん、審判の不正は真剣に討議され、正されなければならない。個人としてはジャッジを裁く制度を作ることが必要だと思っている。しかし、審判の不正疑惑以上に、ナショナリズムの問題が重要視されなければならないだろう。
 アメリカが中心になり、全世界に押し進めようとしていた「グローバライゼイション(Globalization)/世界化運動」。そんなアメリカが、簡単に「ナショナリズム(Nationalism)/自国第一主義・国粋主義)」に陥ってしまったのだ。あれだけグローバル・スタンダードと言い続けた国が、これほど簡単に、国粋主義の波に飲み込まれてしまうと、誰が予想しただろう。いったい、今までのアメリカがやってきたことは何だったのだろうか。
 アメリカの傲慢。
 それが21世紀の地球にとって脅威となる。そんな予感が強く感じられたオリンピックだった。
 時を同じくして、アメリカの巨大企業であるエンロン社の破綻が、話題になった。アメリカの京都議定書破棄の背景には、破綻したエンロン社とブッシュ大統領の癒着があるとすら報道された。しかも、エンロン社にはブッシュ一族とビンラディン一族の確執を示す事実まで見つかったというのだ。しかし、こうした疑惑が指摘されたにも関わらず、エンロン社の破綻に関してアメリカの報道は透明性を欠いたままである。そして、エンロン社元副会長の死に関しても、謎を残したままに忘れ去られつつある。

 テロ事件からオリンピックという経緯の中で、わたしは「もしかしたら、21世紀の社会は根底から新しい価値観や倫理観を必要としているのではないか」という疑問にとらわれ続けた。アメリカがリードする民主主義社会すら、行き詰まっているように感じられてならなかった。

 オリンピックに賭ける若者が純粋に努力するように、わたしたちはより多様な価値観を統合するよりよき未来に向かい、努力する必要があるのではないだろうか。

 そんなことを考えさせられたソルトレイク・オリンピックだった。

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