なにかが変わりつつある

レルヒ祭の思い出から
 1998年2月11日、わたしは新潟県上越市にいた。
 日本スキー発祥の地と呼ばれる金谷山スキー場で、エアリアルショーとモーグル競技会をおこなっていた。
 それは日本にスキーを伝道した人物の名前から「レルヒ祭」と命名され、日本にスキーが伝えられた出来事を記念するイベントだった。Lerch
 明治時代、レルヒ中佐が伝えたのと同じスタイルのスキーヤーたちが、オーストリアから招かれ、当時の姿を再現していた。そして、上越市のたくさんの人々が、お祭りの雰囲気を味わうため、会場に詰めかけていた。そんなイベントでモーグル競技会をおこなうことは、わたしにとって意義深い出来事だった。一つにはスキーの生まれ故郷で、新しいスキー競技をおこなおうという理由から。もう一つには、それが長野オリンピック・モーグルの決勝当日におこなわれるという理由から、わたしにとっては特別に想いの深いイベントだった。
 金谷山のモーグル競技会が佳境に入ったころのことである。コンピューター集計を担当する遠山氏が、インターネットを通じてオリンピック情報を取り寄せた。すると、次のニュースが飛び込んできたのである。
「里谷多英、ゴールドメダル!」
 このニュースはすぐさまDJによって会場に流された。
「な、なんと、里谷選手が長野オリンピック・モーグル競技で優勝しました」
 どよめくような歓びの声。それが、イベント会場につめかけた数千人の観衆から発せられ、しだいに拍手に変わり、やがて大きくうねる拍手の波が、スキーのふるさとに寄せては引き、寄せては引いた。
 不思議な感動だった。さわやかだった。モーグル好きな地元スキーヤーと苦労して実現させた金谷山での競技会。そこに集まっていたのは『モーグルを愛することにかけては誰にも負けない』と自負する者たち。そして、モーグルという名前すら聞いたこともないたくさんの市民の方々。その両者が目頭を熱くし、手が痛くなるほど拍手していた。
 そこには信じているスポーツがようやく認められメジャーになりつつある、という歓びを持つスキーヤーと、それを認めつつある観衆の両者が存在していた。

 かつて、たくさんのスキー場から禁止され、スキー連盟から白い目で見られたスポーツが、若者たちの心をとらえている。下降線をたどるスキー業界の中で、モーグルだけが上昇曲線を描いている。そんなモーグル競技によって、日本女性初の金メダル。
 この時、わたしはそこに大きな意味があると感じた。なぜなら、それは新しいスポーツの台頭を意味するだけでなく、新しい感性の台頭と、新しい社会システムの台頭を意味しているから。

 古い日本的な縦割り構造社会から、オリンピックという巨大競争世界の頂点に立つ選手を生むことは難しいだろう。それはちょうど貿易の自由化に似ている。貿易の自由化が進めば進むほど、競争は激化する。世界中が競う大競争時代が訪れる。そこで生き残る者は、ほんとうに世界的競争力を持った者たちのみである。そんな中で、まっ先に競争力を失う者が、政府によって保護されてきた分野に生きる者であろう。日本であればさしずめ「金融」「建設」「農業」であろうか。これらの分野で、政府の保護下に生きている者たちは、オリンピックを例に取れば最下位確定である。
 自由経済を統制しようと思えば、自由を締めつけ不自由にするしかない。政府が保護政策をとることは、言ってみれば自由競争をやめさせるということである。これはスポーツの世界にもそのまま当てはまる。日本のような縦割り構造を持つスポーツ社会に、ほんらいの自由競争は起こり得ない。後輩が先輩の肩を揉み、洗濯をし、食事の世話をするような社会に自由競争はない。なぜなら、下級生はすでに時間的、精神的ハンディキャップを背負っているからである。
 フリースタイルスキーは、新しいがゆえに日本的縦割り構造を持っていない。まったく持っていない訳ではないが、他のスポーツに比べたなら、極端に少ない。だから選手たちはほぼ平等であり、年齢や出身、性別、学校による差別を経験していない。また体育会的縦割り組織も育っていない。つまり、ほんらいの意味の自由競争社会が存在している。これが世界的競争力を持ち得たゆえんのひとつであろう。
 いっぽう、ほとんどの日本スポーツ社会は、縦割りで極端な統制主義、全体主義に犯されている。そして、フリースタイルスキーにも、そんな影響が伸びつつある。
 これからの時代を生き延びるため、わたしたちは経済的自由化を進めるだけでなく、精神的自由化をも進めなければならないであろう。個人が全体の中で、自己の力と主張をおこなうことができ、そこに個々人の社会化を進める新しい構造を生み出さなければならないだろう。ほんものの民主主義社会の確立に向け、個と、自立性の確立に努力しなくてはならないだろう。
 里谷多英さんの優勝はそんな未来への一筋の光であるように、わたしには信じられてならない。
Home ホームへ