ニューエイジ思想とフリーライド

フリーライドにはニューエイジ思想が詰まっている

Freeride
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 わたしはニューエイジ思想に興味を持っています。
 理由はそれが世界に必要なものだと感じているからであり、同時に歴史的必然から生まれたものだと感じているからです。
 ニューエイジ思想のひとつの特徴は、総合的であるということ。これは20世紀の科学的思想と対極をなす思考方法だと言えましょう。たとえばフリースタイルスキーで言うなら、コンバインドと呼ばれる3種目をこなすスキーヤーは総合的(ニューエイジ的)で、スペシャリストと呼ばれ単独種目をおこなう人は20世紀的(科学的)であると考えられます。つまり、物事を分断してとらえるか、総合的にとらえるかによって生まれる違いです。

 科学とは文字通り、小さな部分(科)に切り分け、その小さな部分を理解することの積み上げから成り立っています。しかし、ニューエイジは『全体は部分の積み上げだけではない存在』と考えるのです。生命とは皮膚や心臓や小腸や頭脳という部分の集合だけでなく、そこに何かしら部分の足し算だけで解決することのできない存在があると考えるのです。
 たぶん、こうした存在を昔の人は霊魂とか魂とか言ったのかもしれません。 
 ニューエイジは物質的なものだけに価値を見出しません。非物質的な存在…、つまり思想や哲学、魂、霊などという目に見えない存在にも、価値を見出す思想です。そのため、金銭や権力と言った現世的価値を超える価値観を、積極的に認めようとする思想でもあります。

 ニューエイジ思想は禅仏教の「わび」や「さび」という思想にも通じていると言えましょう。なぜなら、禅において『侘(わび)』とは「物質への欲望(物欲)を持たない境地を指し、肩書きや権力を求めない心を表している」からです。そして、『寂(さび)』とは「他人の評価に惑わされない境地を指し、自分の信じる道を孤独に歩み続ける心を表している」からです。
 こうした考え方は「気に入ったものをボロボロになるまで使い切るフリーライダーたち」の生活習慣に等しいものです。また1回のジャンプを部分に分割することなく、総合的に評価しようとする姿勢にも共通点が見られます。加えて、Competition(競争)ではなく、Contest(品評会)を求める心も、同じものだと言えるでしょう。
 フリーライドは競争を拒否します。ですから、フリーライドの大会において、競技会という言葉は相応しくありません。エアリアルや体操競技のように、難しい技をより正確におこなう人が最高の人であるという評価をしないからです。そこには個性と独自性や芸術性を評価しようとする心意気が満ちあふれています。
 こうしたフリーライドの精神が、21世紀を担ってくれることを、わたしは望んでいます。
 しかし、どんな世界にも、排他的な側面があり、他を拒絶する姿勢が生まれてくるものです。現在のフリーライドについて言えば、フリーライド的なフォームや身のこなしだけを高く評価し、エアリアル的なものやモーグル的な演技を拒絶する風潮が見られます。

 フリーライドはパークと呼ばれるスキー場内の施設でおこなわれることが多いのですが、その多くにローカルなリーダーを頂点とする小さな縦社会が見られることも事実です。
 フリーライドというスポーツを通じて、より多くのスキーヤーとスノーボーダーが、より大きな世界に目ざめ、より多様な価値観を認め合い、その中で共存する道を生みだして欲しい。
 そうわたしは願っています。
 そうなってこそ初めて、『フリーライドは歴史的必然から生まれ、21世紀を支えるスポーツ』へと成長できるのです。
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