The Dragon Quest
<1994年頃に書いたエッセイから>
現代の英雄伝説

Tenjin_10

 あるモーグルキャンプからのワンシーン。
 夜、ミーティングも終り、かなりふけているというのに、二十人近い生徒たちがテレビの前に集まっていた。ビデオを見ているのである。リレハンメル・オリンピックのモーグル決勝だった。そして、彼らの瞳は、まるで画面を焼いてしまうかのように熱く輝いていた。
 わたしが席に着くやいなや、みんなから、質問とも喚声ともつかぬ声が飛んできた。
「スッゲー! ダフィー・ダフィー・ツイスターだ。どうしたら、あんなのできるんですか?」
「ジャン-リュックのスタートのとき、真後ろに太陽がでますよね。後光みたいで、なんか感動的ですね。でも、あいつだけ光るなんてズルくないですか?」
「角皆さん! エドガーとジャン-リュックの違いを説明してください」
 熱心なみんなの質問に、ひとしきり答えたあと、わたしはこう聞いてみた。
「どうしてみんなは、そんなにモーグルが好きなの?」
 もちろん、彼らの答えは想像できた。そして、そんな想像のほとんが正解だったろう。しかし、あえて聞いてみたのだ。たくさんの若い熱狂的なモーグルスキーヤーたち。彼らの姿を見ていると、まるで二十年前の自分を見ているかのような錯覚に捕らえられた。そして、当時と変わらない彼らのひたむきさが、とても嬉しく感じられた。
「なんといっても、おもしろいですね」
「どうしてかわかりませんが、モーグルのことを考えると、熱くなるんです」
「自然にモーグルのことばっかり考えちゃいますね」
「なんか、『これだっ!』て感じだなァ」
「エアーが決まった時なんて、生きててよかったって、ほんとに思いますよ」
「みんなから『スッゲー』とか『ヤルじゃん』とか言われるのも嬉しいですネ」
 彼らのほとんどが、怪我を経験していた。しかも、けっして軽い怪我ではなかった。しかし、そんな試練にも負けず、熱っぽく語る彼らの話を聞いていると、脳裏にこんな場面が浮かんできた。
Nekoma_Mogul_Camp
 かなり昔の出来事だった。
 わたしは、大学のベンチに座っていた。
 春で、緑が美しかった。目の前の花壇には、赤いチューリップや、黄色や白のパンジーが咲いていた。しかし、そんな明るさとは対照に、わたしの胸にはどんよりと雲が掛かっていたのである。
 うららかな天気が、わたしには、とても辛く感じられた。
 その時、わたしは、二十歳を過ぎていたにもかかわらず、自分の将来がわからなかった。進むべき道が決められなかった。漠然とした夢はもっていたが、どうしていいのか、まったくわからなかった。
 当時、わたしの大嫌いな本に『さようなら、快傑黒頭巾』というのがあった。そしてそこには、こんな文章があった。
「…ところで(ここがこのところのぼくの泣き所みたいなものなのだが)食事して新聞を読んでしまうと、ぼくはもう何もやることがなかった。もちろん、逆立ちをするとか、テレビを見るとか『お勉強』をするとか、つまり、何でもよければ、いくらでもやることはあるのだが、ぼくの言うのは、そういうことじゃないのだ。つまり、どういうのだろう。とにかく何もやることがない。何も、なあんにも…」(庄司薫「さようなら、快傑黒頭巾」より)
 主人公の薫クンは、かなり頭のいい少年という設定だった。いわゆる名門校に入り、エリートコースを進むこともできる少年だった。ところが、彼の胸には、いつも、もやもやがたまっていたのである。何かが違う。そんな感覚に付きまとわれていた。オトナのひとは、彼に自信をもってこう言い切った。
「まず、『お金をかせいで食べること』が大切で、そのための技術や仕事を身に付けなければいけない」と。
 もちろん、薫クンにも、食べることの大切さと大変さはよくわかっていた。しかし、彼には、生きることは、どうも食べることだけではないように感じられたのである。けれども、『ほんとうに大切なこと』は何だかわからなかった。だから、薫クンは飛べなかったのだ。
 当時のわたしも、『そんな大切なこと』がわからなかった。そして、「ともかく何もやることがない。何も、なあんにも…」、というぐあいに感じていたのである。
 しかし、そんないっぽうで、違う生きかたがあることにだけは気がついていた。
 たとえば、『カモメのジョナサン』のような生きかたである。
 食べることを拒否してまで、自分を信じて飛び続けるジョナサン。
「すべてのカモメにとって、重要なのは、飛ぶことではなく、食べることだった。だが、この風変わりなカモメ、ジョナサン・リビングストンにとって、重要なのは、食べることよりも、飛ぶことそれ自体だったのだ。その他のどんなことよりも、彼は飛ぶことが好きだった」( リチャード・バック「カモメのジョナサン」より) 。
 ジョナサンは、命をかけてまで、自分の限界に挑んでゆく。自分の限界に挑み、それを押し上げてゆく。単に生きることを超えた何かが、そこにあった。そうした生きかたが、存在することだけは知っていたのだ。そして、そうした『大切なこと』を持っている人間を、どこかでうらやんでいた。自分の全身全霊をもって生きたい。歓喜に涙したり、恐怖にうち震えたり、ほんとうの生きるという体験をしてみたい。そう、望んでいたのである。
 危険なことに遭遇し、それを命懸けで、しかも、自力で乗り越えてはじめて、ほんとうのオトナになれる。わたしもそんな気がしていた。ところが、ただみんなに言われるままに生きていくだけでは、命懸けの冒険など、決して体験できないかのように感じられたのだ。つまり、強烈な体験というものは、とても難しい世の中であると思われたのだ。
 大声で泣き叫ぶような悲しみや、踊るような感動は、とても現実離れしたものに感じられた。セカンドハンドの冒険ならば、どこにでも転がっている。だが、そんなもので満足できるわけはなかった。流されて生き、こどものまま年を取るか、それとも、大切な何かを見つけて苦労しつつ成長するか、そのどちらかだった。
 そんな時、わたしはフリースタイルスキーに出会ったのである。そして、モーグルやバレエやエアが、わたしの『大切なこと』になったのである。
 たぶん、それは音楽でも、絵画でも、仕事でもよかったに違いない。たぶん、どんなものであれ、自分の心を踊らすようなエネルギーを持ち、自分の全力をぶつけられるものであるならば、どれでも同じだったに違いない。ただ、わたしにとって、それはモーグルであり、フリースタイルスキーだったのだ。
National_Pro_Championship
 そして、今、たくさんの若者たちが、そんな冒険を求めてモーグルに取り組みはじめた。彼らは、モーグルの持つ鋭い刃物で、固く閉ざされた自分の心の殻を切り裂き、その中に潜ってゆく。今まで知り得なかった自分の深みへと入ってゆく。そして、心の深淵に住む、たくさんの怪物たちに出会うのである。時には恐怖におののき、時には歓喜に震えながら。これは正真正銘の冒険だ。だからこそ、自らが傷つき、血を流すこともある。それどころか、そうした世界で迷い、もどれなくなってしまうことだってあるだろう。時には、今までの自分を殺してしまうことすらあるかもしれない。
 より高く飛ぶのは、より危険なことなのだ。
 どんな国にも、竜退治(ドラゴンクエスト)の伝説があるように、人間にも、冒険による自己探索が必要なのではないだろうか。そして、今、若者たちは、そんな冒険の世界を、モーグルに見つけはじめている。
「…モーグルをやっていると、ほんとうに生きているという感情に打たれるんです。そんなことは、今まで一度もなかったのに…」
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