靖国問題がクローズアップされているが、ここでは今までとまったく違った角度から靖国問題を語ってみたい。
問題をさぐる切っ先は宗教的倫理観である。
国際化とかグローバリズムとか言われて久しいが、そこにある価値観や倫理観は、ほとんどキリスト教に負っていると、わたしは考えている。そして中東問題の多くが、キリスト教に起因しているとも考えている。
キリスト教とユダヤ教、そしてイスラム教の神はすべて同じ神であるにもかかわらず、頻繁な紛争を引き起こしているが、その根底に流れる価値観や倫理観には共通点も多いと考えている。
キリスト教では悪人は救われない。
悪を犯したものは最後の審判の日、地獄に堕とされる。人間は原罪を負っているため、悪を退け、善行を積み重ねなければ天国に行くことはできない。
わたしの知る限りだが、「悪人だから救われる」という価値観を持つ宗教は日本のみではないだろうか。
日本には「悪人こそ、救われなければならない」という思想がある。
親鸞の教えを伝えるという歎異抄には次のような言葉がある。
「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
善人ですら阿弥陀如来に救われるのだから、悪人ならなおさら救われる。
この感性は日本人ならわかる人も多いはず。なぜなら、悪は宿業によってもたらされるという感性が、どこかにあるからである。
しかし、キリスト教的な精神構造を持つ人に、「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」が理解できるだろうか。それは、とても難しいに違いない。
靖国には「A級戦犯が祭られているから駄目」という論争がある。しかし、「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という視点から見たなら、「A級戦犯が祭られること」はいとも自然なこと。戦犯だからこそ祭られて当然ともなる。
悪は宿業であり、その個人の悪徳ではない。それどころか、その個人の負わされた重い十字架なのだから。イエスが人間の悪徳を背負ったように、悪人は宿業を背負っていると感じる感性が、日本人にはある。
こうした親鸞によって日本人に育まれた感性を、どこかで説明することが必要であると、わたしは考えている。反対に日本人は、キリスト教の原罪という感覚を、どこかで学ばねば誤解の元になりかねない。
世界にはさまざまな常識があるが、日本人の「悪人こそ救われる」はなかなか理解されがたいはずだ。
靖国問題をこうした、まったく違った宗教的、心理的倫理観の違いから説明する必要もあるのではないだろうか。
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