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わたしは自分の職業欄に『プロスキーヤー』と書くことが多い。
会社役員という肩書きもあるし、作家という顔もあるが、いちばんぴったり感じる肩書きは今でもプロスキーヤーである。そんなプロスキーヤーという名称を初めて使ったのは1979年。SIAのプロテストを受け、合格した時だった。
プロになる前の2年間、わたしは国内のフリースタイルスキー競技会にアマチュアとして出場した。つまり、スキーに夢中になり、初めて迎えたシーズンは1978−79年ということになる。
1978−79年。それは未曾有の雪不足だった。
年を越しても、雪はその気配すら見せなかった。
正月に草は青く、牧場には牛が放たれていた。
わたしの所属していた鬼首の三浦雄一郎スキースクールは休校となり、わたしを残し、全員が山を降りることになった。
スキー場でひとり、雪を待っていた。
トレーニングで牛の群れをぬって走り、スキー場のメインコースを駆け上り、駆け下り、六十キロのリフト荷重用砂袋をかついでスクワットし、跳び、しゃがみ込み、心臓の音を聞いた。
雪が来たのは一月二十六日の夜だった。
いつものようにひとりでプレハブにすわっていた。
自分の誕生日なのは知っていたが、それが特別な意味をもっているようには思われなかった。ふと気がつくと、なぜか街灯の影がゆれて室内に差し込んでいた。
大粒の雪が降りはじめたのだ。
あの時ほど、雪が嬉しかったことはない。
今年も雪が遅いという。
ふだんならすでに心地よいスキーの疲れを感じている頃なのに、まだわたしの家の庭は白くなってさえいない。
しかし、今年のわたしは単純に、あの時のように、雪を待ちかねることができない。
それにはいくつかの理由がある。
まず自分の手の怪我…。そして、世間に漂う未来への不安や恐れ…。
21世紀、時代はアクエリアスの影響下に入る。
それは大量生産・大量消費の時代から、創造の時代への変化が必要とされ、唯物主義から魂の復活が必要とされると言われている。しかし、変革は大きな犠牲を強いている。過去の遺物たちが最後の反撃に出ている。特に京都議定書を拒否し続けるアメリカのあり方は、過去に戻ろうとする巨大な力となっているように感じられてならない。
何が正しく、何が指針であるかが分からない時代。それが現代である。
そんな中で、わたしたちは自分たちが信じるものを貫き通す決断を迫られている。真の芸術を見極めるように、自分たちの正義を貫く力を求められている。自分たちの中に紛れ込んでいる宮沢賢治を探しだし、世に認めさせる必要を迫られている。
今シーズンこそ、わたしは自分のスキーに、そんな決意を潜ませたい。
今シーズンは特別な冬になりそうな予感がする。 |
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