Lately what I am doing, and thinking
近頃の角皆優人

多発テロ事件に思うこと
 これを書いている2001年12月04日現在、ブッシュ大統領の評判はすこぶる良い。
 アメリカ国内での支持率は90パーセントを超え、日本やヨーロッパなど世界中で人気が高まっている。
 わたしはこの風潮に対して、反抗的な気持ちが強い。それどころか、心の深いところで、恐怖すら感じている。ここで、わたしがなぜ彼に反発し、恐怖すら感じているのかを書いてみたい。

 まず、この事件を知り、第一にわたしが感じたのは、「これだけの事件を起こすには、大きな権力が深くかかわらなけれ不可能ではないか」という疑いだった。9.11_1
 次に、ブッシュ大統領のやり方は「国際的に考えて正義なのだろうか」という疑問である。

 わたしにはブッシュ大統領のやり方が、どうしても正義とは思えないのだ。
 もちろん、アメリカ国内では正義とする声が高いだろう。しかし、それは地球レベルの視野から考えて、正しいことなのだろうか。

 正義という言葉の使い方はとても難しい。そのため、次のように問い直した方がよいのかもしれない。
「果たしてアメリカの正義は人類の正義なのだろうか」
「アメリカの正義は、わたしたちアジア人やイスラムの人々にも通用するのだろうか」

 話はずいぶん前のことになるが旧ソ連が崩壊したとき、この出来事を表現してたくさんの人が、「ソビエトに対するアメリカの勝利」とか、「共産主義に対する資本主義の勝利」とか、「社会主義に対する民主主義の勝利」などという言い方をした。この表現に、わたしは大きな疑問を感じた記憶がある。ほんとうにそうだろうか。人間の弱い部分が、社会主義体制の国に、前触れとして出ただけではないのだろうか。たとえばソビエト崩壊の原因に上げられている金融機関の行き詰まりや、公共投資など(5カ年計画など)の行き詰まりは、すべて今の日本にも現れている。
 もし、旧ソビエトの崩壊をしっかりと検証したなら、そこには現代の資本主義社会と同じ問題、特に日本が抱えているのと同じ問題が、潜んでいるのではないだろうか。

 ITバブル崩壊後のアメリカも、そんな行き詰まりに襲われるはずだった。未曾有の経済危機を目の前にして、ブッシュ大統領はテロリズムへの戦争を宣言した。
 …バブル崩壊後の低迷を避けるための戦争…。
 そんな意味深長な言葉が、脳裏に浮かばざるを得ない。

 湾岸戦争やアラブ人、イスラム教国、イスラエルの問題について、わたしたち日本人はあまり知らない。
 考えてみれば、十字軍進行以来、白人とアラビア人の間には途方もない確執がある。それは日本人にはとうてい計り得ないもの、想像すらできないものだろう。それは日本とアジア諸国にある問題を極端に拡大し、深くしたようなものだろう。わたしはキリスト教とイスラム教、そしてユダヤ教の神が同じ神だということを、ついこの間まで、…多発テロ事件が起こるまで、知らなかった。
 ユダヤ教とキリスト教に深い関係があることは、どこかで習った記憶がある。しかし、イスラム教はまるで違った宗教であるように把握していた。しかし、イスラム教はまさにキリスト教と同じ神をあがめているのだという。

 イスラム教では、イエス・キリストを預言者の一人と解釈するらしい。そして、キリスト以後に出現したモハメッドが最終預言者という立場にあるという。キリスト教がキリスト自身を神とする…三位一体…のに対し、イスラム教では、キリストは預言者にすぎないという。そして、制約のないキリスト教と、具体的戒律に満ちたイスラム教。その立場は同じ神の元に、正反対の方向を向いているように感じられてならない。

 ユダヤ教とキリスト教、イスラム教の三者が、同じ神を異なった視点から信じ、そこから血みどろの歴史が繰り広げられたという事実。それはわたしの理解を超えている。たぶん日本人やアジア人で、これを十分に理解するのは難しいだろう。なぜなら、現代日本人が教育され、持っている宗教観は、これらの宗教からあまりに遠いところにあるから。

 歴史的に考えてみると、湾岸戦争や多発テロ事件は宗教の争いと捉えることもできるだろう。
 経済的に考えると、オイルという富の主権を誰が握るのか、という争いと捉えることもできるだろう。資本の問題として考えると、幾重にも意図が隠されているようにも思える。
 社会的にみると、米ソ対立後のアメリカが、その覇権を誇示するためのデモンストレーションだとみることもできるだろう。
 もし湾岸戦争や多発テロ事件が、それらの力の混合物だとみた場合、イスラム教国の人々は現在の日本人が考えるような残酷で、時代遅れな民ではなく、まさに犠牲者としての姿が浮かび上がってくる。
 十字軍以来、キリスト者に迫害され続け、経済的にも社会的にも追いつめられた孤独な民の姿が見えてくる。

9.11_2 問題のひとつは「民主主義」や「資本主義」という考え方が、すべて「キリスト教国」に生まれたという事実である。キリスト教という特殊な宗教だけが、民主主義や資本主義を生むことができたのではないか、という疑問が生まれる。
 民主主義がぜったいと考えるのも、キリスト教国と日本くらいであるという事実である。つまり、ここで裁かれているのはひとつの異なった価値観であり、裁いている側もひとつの価値観なのである。
 果たしてそうした一方的価値観を、地球全体に押しつけることが可能なのだろうか。また、そうしてもよいものなのだろうか。

 残念ながら、わたしに答えは出せない。また出したところで影響力を持つこともできない。しかし、今回の問題と、それに対応する各国の姿勢に、どこかで非常な恐ろしさを感じざるを得ない。

 わたしの心のどこかには、9.11が根本的に仕組まれたのではないかとする気持ちがある。
 信じたくはないけれど、そう考えた方が理性的だと感じる。ベトナム戦争やキューバ危機、大東亜戦争でも、アメリカはこうした大がかりなデマと仕掛けを作り、世論を動かしてきた。
 悪魔的なやり方と呼んでもいいだろう。
 もし、9.11がアメリカ政府筋が仕組んだものだとしたら、わたしたち地球人は、どう対応したらいいのだろう。
9.11
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