もうずいぶん昔のことになるが、わたしはソビエト連邦を旅したことがある。
ロシアでおこなわれるフリースタイルスキーの国際大会に、日本の代表選手たちを率いて参加したのである。ソビエトで初めておこなわれた国際スキー連盟(FIS)公認のフリースタイルスキー競技会だった。
向こうに着くまで、わたしは日本チームのコーチとチームリーダーという役割だった。しかし、スキー場に着くと間もなく、さまざまな事情から競技会の審判を引き受けることになった。
あれは1980年代後半のことだ。たぶん1988年前後だったと思う。
あの旅行くらい、当時のわたしを驚かせたものはない。そして、たくさんのことを考えさせた経験はない。
まず、飛行場へ到着した瞬間から驚くことになった。たくさんの若者が、わたしたちを取り囲んだからである。
わたしたちの旅客機は、天候や気流などの影響で、到着が予定よりだいぶ早くなった。たぶん一時間くらい早く着陸したと思う。そのために起こった出来事だった。
まず、入国管理所は予想外なほど簡単に通り過ぎることができた。
長旅に疲れているわたしたちが待合所の椅子に腰掛けると、どこからともなくたくさんの若者たちが集まってきた。二十人ほどの若者たちで、数人の少女も混じっていた。はじめは少し躊躇していたようだったが、しばらくすると数人が英語で話しかけてきた。
「どこから来たんだい?」
「日本だ」と答えると、とたんに笑顔を見せた。
「そうか、日本か」
彼らに敵意や悪意があるようには見えなかった。そのため、わたしたちも笑顔になった。
「何しに来たんだい?」
「スキーに来たんだよ」
そんな会話を続けていると、彼らのリーダー格とも見える青年が、笑顔でこうたずねた。
「キャビアは好きかい」
わたしはキャビアなど食べたことがなかった。チーム員の一人が、「ああ、大好きだよ」と答えた。
「そうか、キャビアが好きなら、そのジーンズと交換しないか」
この時点で、わたしは何とか理解できた。彼らは、わたしたちと物々交換したいのだということを。
彼らが欲しがっていたのは、ジーンズやTシャツ、トレーナーなどだった。
そして日本チームの数人は、そんなソビエト事情を知っていたらしく、いくつか交換できる物品を持ってきていた。
トランクを開けると、彼らの目は釘付けになった。
特に当時、まだ珍しかったストーンウォッシュ・ジーンズを見つけると、彼らの目は輝やき、ため息がもれた。
「リーバイスのストーンウォッシュだ!」
「それなら、キャビア4缶と交換するよ」
「オレは5缶出してもいい」
そんな会話が飛び交ったのである。
しばらくすると、ソビエトのスキー連盟のメンバーが、わたしたちを迎えに来た。
彼らの姿を見つけるや否や、若者たちは急いで話しをまとめ、消えてしまった。
モスクワ市内のホテルに着くと、食事の豪華さに驚かされた。
料理はとても美味しかったのだ。量も食べきれないほどあって、どれも美味しかった。特にボルシチは素晴らしかった。
モスクワ市内を多少観光してから、スキー場に移動する日が来た。
まずバスで飛行場に行き、そこから飛行機に乗り、着陸するとふたたびバスという一日がかりの移動だった。
スキー場は黒海の近くだったように記憶している。
移動中はところどころで、バスの窓にカーテンが引かれ、「外を見ないように」と命令された。
トイレ休憩では、床に穴があいただけのトイレや、床下に豚が放されているトイレを使ったり、貧困の極みのような村を抜けたりもした。
しかし、到着したスキー場は素晴らしかった。
雄大な山脈はヨーロッパアルプスを思わせたし、標高も高く、氷河を見渡すことも出来た。スキー場施設も素晴らしいものだった。ホテルの建つエリアは、政府高官の保養地で、美しい別荘もたくさんあった。
じっさいにトレーニングを開始すると、アメリカやカナダ、イギリス、フランスなどの選手が到着し、さまざまな情報を交換できるようになった。
わたしは自由主義圏の選手だけでなく、できるだけソビエト選手やコーチ、役員たちと交流しようと努めた。
ソビエト選手の中に、日本でわたしがコーチした選手もいたので、すぐに多くの選手と親しくなることができた。
そんな過程でいろいろな驚きがあった。
まず、ハリウッド製のソビエトを批判する映画が大人気だったことだ。
ソビエトのサイボーグのようなボクサーと闘う『ロッキー』。
ソビエトから秘密戦闘機を盗み出す『ファイアーフォックス』。
ソビエトから亡命したバレエダンサーがソビエトに捕らえられる『ホワイトナイツ』。
他にもたくさんのソビエト批判映画が、若者たちに求められ、讃えられていた。
その姿から、わたしはソビエトの国としての崩壊を感じたものだった。
また、英語を話すことは、とてもクールなことだという強い認識も感じられた。かつて日本で、金髪で青い瞳をした長身の男女がもてはやされたのと同じ雰囲気があった。いちばんの人気テレビ番組は「英語教室」だとも聞いた。数人のソビエト選手や観客が、わたしに英語で話しかけてきた。その中には、かなり上手な英語を操る若者もいた。
ホテルで「時間を定めての外出禁止令」が出されたり、その時間になると銃を持った守衛がホテルの玄関に立っていたり、日本人からすると、考えられない情景が、そこにあった。
わたしがソビエトから戻って数年のうちに、ソビエトは崩壊した。
そんな理由を、今ふり返ると十分に理解することができる。
もっと深く考えるなら、途轍もなく大きな力が、どこかで動いていたようにも信じられる。
情報操作による大がかりな心理戦が、ソビエト全土で繰り広げられていたように思えてならないのだ。
わたしが行ったソビエトは五木寛之氏の『青年は荒野をめざす』のソビエトとは違っていた。
もっともっと深いところで、体制が揺すぶられ、芯が腐りつつあるソビエトだった。
そして、その姿を思い出すにつけ、わたしは背筋が寒くなる。
なぜなら、わたしたち日本も、第二次世界大戦後、長い期間にわたって情報操作され、心理戦を挑まれ続けていたからである。ソビエトの若者が映画『ロッキー』に驚喜し、拍手し、ソビエト体制を憎んだように、わたしたちはかつての日本を憎み、『良きアメリカ』に拍手を送っていたのだ。
現在のロシアや旧ソ連邦の人々に、アメリカの心理戦はどのような影響を残しているのだろう。
そして、わたしたち日本人にワー・ギルト・プログラムはどのような影響を残しているのだろう。
わたしたちは自分が考えたと感じても、多くのことを情報操作に負っている。
知らず知らずのうちに、どこかに誘導されていることも多い。
わたしのソビエト紀行は、そんな恐ろしさをまざまざと思い出させてくれる。 |