信濃追分あたり

生き続ける詩とロマン
Lake
 高校生から大学生にかけて、わたしは信濃追分あたりをずいぶん徘徊した。
理由は単純だった。信濃追分あたりを描いた作家たちの作品に心引かれたからである。わたしのまわりには同じような魅力に取り憑かれた者もいて、一緒に歩こうという友人も多かった。
 当時、わたしがいちばん好きだったのは立原道造だろうか。
 彼の詩を口ずさみながら、ずいぶんあのあたりを歩いた記憶がある。
 そして時折、自分も詩を創った。
 そんな青春から三十年ほどがすぎ、ふたたび立原道造の詩集を手に取った。それは不思議な過去との再会だった。
 わたしたちが生きている現代、詩人はなかなか生きられない。
 ゆったりと詩を鑑賞する時間も心も持ちづらい。
 言葉の奥行きさえ、失われつつある。
 そんな現代に三十年を経て立原の詩集を開いたとき、かつてと同じように、いやかつて以上に、彼の世界がわたしをとらえた。心からの感動が、そこに待っていてくれた。驚きだった。

 友人の一人がのめり込んでいた堀辰雄の作品にも、今回はじめて触れることができた。
 たとえば有名な 『風立ちぬ』 である。
 そこに描かれた時間が、いったいどれほど現代からかけ離れていることだろうか。
 『風立ちぬ』に描かれているのは “苦しいほどの恋愛” と “まっこうから見つめられた生と死” である。
 結核で死を向かえようとする妻を看取る作家。
 そこに流れる感情の深淵と、超越された時間。
 堀辰雄の作品の中に流れる“時”。立原道造の詩に流れる時。そして、きっと彼らに影響を与えたであろうドイツロマン派の作品に流れる時。
 わたしたちはいったい、どこにそんな時間を忘れてしまったのだろうか。
Mountains
 近頃、スローフードやスローライフという言葉がはやっている。
 そうした言葉と風潮が、わたしたちに深淵を取りもどしてくれるのだろうか。
 商業主義とコマーシャリズムに踊らされる現代人。スローライフという流行が、わたしたちに “深みのある生活” と “時計の針を超えた時間” を取りもどしてくれるとは思えない。なぜなら、ほんとうの命は現代人に重すぎるのだ。
 深い挫折や深い悲しみ、そして深い喜びを経験して、はじめて見える世界があるように、孤独と思索を重ねて、はじめて訪れる世界がある。
 きれい事と商業主義に踊らされ続ける人々に、そんな世界は無縁であろう。
 しかし、この現代にあって、マーラーを愛する人たちが増え続けるように、もしかしたらまがい物でない、ほんとうの命を求める人たちが、地球のどこかで増えているのかもしれない。
 軽井沢にはたくさんの文化的建物がある。そんな中で人気が高いのは軽く、心地よい主題を扱っているところばかり。命の深淵に触れるような場所を訪れる人は数少ない。しかし、そうした場所を維持しようとしたり、残そうとしたりする人たちがいることだけでも、よしとすべきなのだろう。
 今から七十年以上も前、軽井沢や信濃追分を徘徊した詩人たち。そこに命の深さを見た人々。
 そんな詩人たちを思う時間が、とても貴いものに感じられるこの頃である。
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