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どかないおばさんと靴を並べない子どもたち

 今までもずっと気になっていたのですが、最近とみに気になることが二つあります。
 ひとつは「どかないおばさん」です。
 たとえばデパートや駅のように人がたくさんいるところで、二人の人間が鉢合わせしたとしましょう。そんな時、どうしても自分から動こうとしないおばさんの存在です。どのような状況でも、「あなたがどきなさい」と思っているかのようです。ひどいときには相手の存在を無視しているように思えることすらあります。これは中年をすぎた女性に多く見られるように感じます。

 もう一つは「靴を並べない子どもたち」です。
 よく体育館やプールなど、子どもたちの集まる場所に行きますが、どこに行ってもバラバラに脱ぎ散らかされた靴が、入り口に散乱しています。子どもたちがトイレに入るたび、トイレ用のスリッパやサンダルがバラバラになります。
 そんな出来事を、昔より頻繁に体験するようになりました。

 わたしは比較的、人に道を譲る方です。理由は海外でよくそうしてもらうため。
「自分から動くことを習慣にしよう」とも思っています。
 しかし、日本の至る所で、まわりに気遣いできない人たちが、増え続けているようです。
 みんなゆとりをなくしているのでしょうか。
 心がすさんでいるのでしょうか。それとも、単に教育のせいなのでしょうか。

 今まで読んできた本のいくつかに、「狩猟民族」と「農耕民族」の違いが書かれていたものがあったように記憶しています。
 狩猟民族は「個人的能力主義」で、農耕民族は「集団的協力主義」というような内容でした。
 その考えを元にすると、「小さな政府」とか、「グローバル化」とか、「実力主義」というのは、「狩猟民族的」と言えるでしょう。しかし、西洋の「個人的能力主義」の裏側には深く浸透した社会的マナーやキリスト教的倫理観があります。それらなしに西欧の社会は円滑に動かないでしょう。たとえば、「レディファースト」や「握手」といった形式すら、社会をうまく動かすマナーのひとつになっていると考えられます。
 日本はそんな倫理観やマナー(ルール)を取り入れることをせず、「個人的能力主義」を推し進めつつあるのではないでしょうか。
 西欧的キリスト教倫理でなくとも、武士道などの倫理を注入していかない限り、「どかないおばさん」と「靴を並べない子どもたち」が増え続けるのではないでしょうか。

 極論すれば、地球人は「狩猟民族」であることを止め、「農耕民族」に変わることが求められていないでしょうか。みんなで種を撒き、みんなで田植えをして、みんなで収穫する。そうしなければ地球の未来はないのではないでしょうか。新時代の新しい「農耕民族システム」こそ、現代の地球に求められているように思います。
 まず自分が、「自分からどく大人になり」「靴を並べる大人」になることが、大事ですが…。
 忘れていたら、まわりのみんな、わたしを注意してください。

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