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ショスタコーヴィッチ 交響曲第5番 聴きくらべ

ショスタコーヴィッチの交響曲第5番を聴きくらべてみました ( 2010年4月22日にスタート)。

 昔からわたしはクラシック音楽が大好きで、さまざまな作曲家のさまざまな演奏に感動し、彼らのCDを買ったり、演奏会に足を運んだりしてきました。Shostakovich
 しかし、同じ曲の異なった録音について、そのいくつかを聴きくらべて甲乙をつけたり、意見を書いたりしたことは、これまでしたことがありません。なぜなら芸術を『比較』するという行為に、意味や価値を感じられないからです。
 100メートル走や50メートルの競泳なら、わたしは簡単に比較することができます。しかも、その走り方や泳ぎ方の技術を比べたり、身体構造や身体能力を比べたりすることに、意味も価値もあると考えています。
 ところがモーツァルトとベートーヴェンを比較することは、不可能だと感じます。マーラーとショスタコーヴィッチを比較することも無意味だと感じます。なぜなら、彼らの価値は、比較を超越していると信じられるからです。絶対的価値を持つものたちを比較することはできないと、素直に信じられるのです。
 モーツァルトやベートーヴェン、ブラームス、マーラー、ショスタコーヴィッチたちは、わたしにとって星のような存在です。個人が何を言っても、何をしても、彼らの価値を左右することは、できないと感じるのです。
 そんな作曲家や彼らの作品だけでなく、素晴らしい演奏の記録も、比較を超越しているのではないでしょうか。
 レコードやCDに記録された演奏のなかには、それだけで完結した世界を創り、一つの宇宙として成り立っているものがあります。そんな宇宙を存在させるために、個人の感受性がかかわったり、経験がかかわったりすることも事実ですが、素晴らしい演奏の記録もやはり、比較を超越した世界に存在していると信じられます。
 それではなぜ、ここでショスタコーヴィッチの第5交響曲の演奏を比較するのでしょう。
 そんな根本的理由も含めて、ここに書いていくつもりです。
 また時々書き直したり、新しく聴く演奏を付け加えたりもするので、興味のある方は、時々覗いてください。
 ショスタコーヴィッチの交響曲第5番を初めて聴いたのは16才の時でした。
 自宅近くのレコード店で、ソビエト直輸入盤のコーナーを見つけ、購入しました。見つけたときにすぐ買ったわけではなく、買おうか買うまいか、数日間悩んだ末、夜暗くなってから自転車でレコード店に行き、ムラヴィンスキーとレニングラードオーケストラによるレコードを買ったことを覚えています。他の演奏者によるレコードも並んでいたのですが、大御所のムラヴィンスキーを選びました。
 その夜、初めてのショスタコーヴィッチを、大きな期待を抱いて聴きました。しかし、見事に裏切られたのです。不気味さを感じてしまい、まったく感動することができないばかりか、音楽に没頭することすらできなかったのです。
 「恐ろしい曲だ」と思いました。理解することなど、遠く及びませんでした。
 それまで知っていたモーツァルトやベートーヴェンの音楽の世界から、遠く離れた音楽でした。
 聴いている間中、強い孤独感と寂寥感に襲われました。
 そのレコードは何度も聴かないまま、紛失してしまいました。
 現在わたしの手元に三種類のムラヴィンスキーがありますが、あの時のレコードが、どの演奏に当たるのか、もしくは別の録音なのか、まったくわかりません。
Bernstein
 次に訪れたショスタコーヴィッチとの出逢いも、幸運なものではありませんでした。
 大学生の頃、親戚の家に遊びに行った時のことです。クラシック音楽好きの叔父から、強く勧められたのが、ショスタコーヴィッチの5番でした。
 叔父はバーンスタイン指揮ニューヨークフィルのレコードを持っており、その場でかけてくれました。左の写真が、同じ演奏のCDです。
 ところが、曲はかつてと同じように不気味に響き、孤独や、悲しみを感じたりはするものの、感動や共感からは遠く離れていました。
 当時、すでにマーラーが大好きだったにもかかわらず、ショスタコーヴィッチは理解できなかったのです。四十代になり写真と同じ演奏のCDを買いましたが、それもあまり聴かずじまいになってしまいました。55才の今になると、大好きな演奏の一つになっているにもかかわらず。

 ショスタコーヴィッチに取り憑かれるまでに、出逢いから40年という歳月を必要としました。
 54才で、ショスタコーヴィッチと三回目となる出逢いを果たします。そのきっかけとなったのは、クラシックジャーナル編集長の中川さんの本に感動したことです。
 中川さんに勧められ、ショスタコーヴィッチを聴き始めました。最初に勧められたのは4番で、その曲でいきなり惹きつけられたのです。
 初めて聴いた時、「まるでマーラーのような曲だ」と感じました。
 ラトル、ミュンフンと聴き、深く引き込まれるに従い、他の曲も聴いていきました。わたしは昔からコンチェルト好きなので、協奏曲をたくさん聴きました。そこで4番に続く発見となったのが、ヴァイオリン協奏曲第1番でした。
 セルゲイ・ハチャトリアンという若い演奏家のCDに取り憑かれました。心を奥底から揺さぶられる体験となったのです。
 人生のなかで、時に自分の感受性をふくらませてくれるようなCDに出逢いますが、このハチャトリアンの演奏はまさにそんな1枚でした。ショスタコーヴィッチを、わたしにとって決定的な作曲家にしてくれたCDです。
Sergei_Khachatryan
 気が付くと、家の棚の多くをショスタコーヴィッチが占めるようになっていました。
 交響曲のみで聴いた順番で言うと、4、10、8、7と聴き、ようやく5番にたどり着いたことになります。

 かつての記憶を紐解きながら聴く5番は、まったく違った顔を見せてくれました。かつてあれほど不気味に響いた曲が、信じられないほど美しく響いたのです。
 その頃になるとヴォルコフ著の『ショスタコーヴィッチの証言』も読んでいて、4楽章のコーダの演奏方法などにも興味を持つようになっていました。

  5番はふつうベートーヴェンの5番やモーツァルトの41番のように、最後に登り詰めて終わる曲として演奏されます。中期のベートーヴェンが主題とした「苦悩を貫いて歓喜へ」という感動があるとされます。しかし、ヴォルコフの『ショスタコーヴィッチの証言』以来、5番のそれは「強制された歓喜である」とする正反対の解釈も成り立つのです。
 演奏の仕方によって、この4楽章のコーダ部分はさまざまな色合いを持つことが可能です。この部分をどう演奏するのか、そこも興味を感じるところです。
 この曲全体をどう解釈するのか、それを知ることも、聴き比べする理由の一つです。もちろん、それだけではありませんが…。

 コーダの解釈だけでなく、1楽章に描かれる葛藤を、「どのくらい厳しいものとして描くか」にも興味があります。
 1楽章は演奏の仕方によっては、これまで産み出された曲の中で、もっとも厳しい葛藤を表現することのできる音楽の一つだからです。
 1楽章をどのように描くかを知ったなら、それに続く2楽章のスケルツォをどのように演奏するのかという流れにも興味が生まれてきます。この流れを間違えると、曲の一貫性が損なわれ、矛盾した内容を持つように感じるのです。あえて矛盾を描くというやり方もあるでしょう。
 3楽章のラルゴは、この曲の魂とも云える部分です。ベートーヴェン以来の深い『嘆きの歌』です。
 3楽章をどう演奏するかで、音楽に内在する深淵が分かれるところです。
 そして、いよいよ4楽章となります。
 この楽章の演奏によって、この曲はさまざまな方向性を持つことになります。
 演奏によってはベートーヴェンの5番に象徴されるように、葛藤を、個人的な努力によって解決するという方向性もあります。しかし、演奏によっては個人では解決できない社会的、時代的な悲劇を感じさせることも可能ですし、偽りの勝利や強制された歓喜という表現も可能です。

 じっさい、さまざまな演奏が存在しているので、多様な方向性それぞれの名演が存在しています。
 まず聴きくらべの最初は、ムラヴィンスキー盤からスタートするのが妥当でしょう。
 この曲の初演者であり、作曲家のもっとも近くにいた大指揮者です。一時期仲違いした時期もありましたが、長い間、親友として交流を持った音楽家です。Mravinsky
 わたしの手元に3種類のCDがあります。
 1973年、東京文化会館でのライヴ。
 ムラヴィンスキーのショスタコーヴィッチ全集に入っている1984年のライヴ。
 そして右写真の1983年のライブです。
 どれも非常に緊迫した素晴らしい演奏です。ライヴ特有の雑音が入ったものもありますが、それを補ってあまりある音楽です。
 個人的には1983年を推したいです。強い緊張感に満たされ、インテンポで聴き手をぐいぐい引っぱっていく演奏。演奏スピードの速いムラヴィンスキーのなかでも、もっとも速い演奏の一つ。ところが、そんなスピードにもかかわらず、深くしっとりとした叙情もしっかりと感じさせてくれます。
 この演奏を聴くと、スターリンの恐怖に震えた時代の緊張感や必死さを、あたかも現実のものであるかのように感じられます。厳しい時代を生き延びた真摯な作曲家と演奏家だけになしえる名演奏です。
Kondrashin ムラヴィンスキーの次に、コンドラシンの演奏を取りあげましょう。
 コンドラシンも作曲者自身と深い結びつきを持つ指揮者で、交響曲第4番や12番の初演者として歴史に名を残しています。
 世界初のショスタコーヴィッチ交響曲全集を録音したのも彼です。録音は少し古いのですが、右写真の全集は韓国でリマスターされ、かなり聴きやすい音になっています。
 1楽章の緊迫感と推進力に目が醒める想いのする演奏です。
 全体に爆発力を感じさせ、全体を貫く強いエネルギーに溢れています。しかしわたしには、こうしたパワーの側面はショスタコーヴィッチの一面のみを表しているように感じられ、少し叙情的な部分で物足りなさを感じます。
 迫力のあるショスタコーヴィッチを求める方にはうってつけの演奏ですが、叙情という点でムラヴィンスキーに軍配が上がります。
Ancerl ムラヴィンスキーやコンドラシンという作曲家直系の演奏だけでなく、名曲だけあって数々の名演に恵まれています。
 有名指揮者たちによる歴史的価値を持つ名演奏もたくさん残されています。
 そんな名演奏の筆頭に、カレル・アンチェルとチェコフィルによる録音を上げておきましょう。
 1961年のスタジオ録音ですが、リマスターされ、非常に美しい音で聴くことができます。
 全体を貫く緊迫感、エネルギー、悲劇性、叙情性とどれをとっても申し分ありません。加えて、アンチェルの指揮は、どこか暖かい人間性を感じさせて、深い感動を与えてくれます。
 第4楽章のコーダも、素直に人間性の勝利を湛えているように響きます。
 バランスの取れた名演で、わたし個人としてはもっとも聴く機会の多い演奏です。
Rahbari アンチェルのようなバランスの良い方向性を持つ名演奏として『アレクサンダー・ラハバリ指揮ベルギー放送フィルハーモニー管弦楽団』のCDもあげておきましょう。これは『500円CD』と名付けられ売られているものです。
 500円という金額で、人類の産み出した芸術の最高峰の一つを聴けるという不思議なCDです。
 素晴らしい芸術には金銭で計れない価値があります。そんな名演を500円で手に入れられることに、少しわたしは戸惑いを感じますが、これはまさにそうした演奏の一つ。ぜひ聴くべきものです。
 比較的ゆっくりとした第1楽章からスタートし、厳しくも美しい世界を歌い上げていきます。ムラヴィンスキーやコンドラシンのような震撼とさせる迫力には欠けますが、さまざまなことを感じさせてくれる演奏です。
 他の巨匠たちの演奏も聴いていきましょう。Bernstein_new
 歴史的にも価値のあるストコフスキーとロンドン交響楽団のCDや、バーンスタインの旧盤と新盤、プレヴィンとベルギー放送フィルハーモニー管弦楽団の演奏、それからあまり知られていませんがショルティもショスタコーヴィッチを残しています。
 まずストコフスキーの演奏ですが、非常に速く、緊迫した第1楽章から始まります。全体にスピード感のある演奏ですが、それにもかかわらず表情が豊かで、引き込まれるところの多い音楽です。
 ストコフスキーは、ショスタコーヴィッチの交響曲6番やマーラーの8番をアメリカで初演したことで知られていますが、5番の録音は歴史的名演奏の一つに数えられます。

 バーンスタインの新盤は比較的ゆっくりとしたテンポでスタートします。
 冒頭から速いテンポの旧盤にくらべ、おっとりとしたスタートに感じられますが、やはりバーンスタインです。曲が進むにつれ、しだいに高揚し、熱く燃え上がります。最後の熱さは旧盤に優るとも劣りません。スタートがおとなしい分だけ、こちらの方が盛り上がるとも考えられる演奏です。

Previn プレヴィンとベルギー放送フィルハーモニー管弦楽団のCDも名演の誉れ高い演奏です。バランスの取れた素晴らしい演奏ですが、わたしは管楽器にやや不満を感じてしまいます。特に3楽章のオーボエなど、この曲の肝心なところで、もう少し高度な何かを求めてしまうのです。第5番はすべての楽器に、非常に高度な演奏が求められる曲ですから。余談ですが、3楽章のオーボエは、どこか『トリスタンとイゾルデ』の響きを思い起こさせませんか。

 ショルティの演奏も名演奏です。
 彼独特の緊張感と叙情が、ショスタコーヴィッチにもふさわしく感じられます。解釈は奇をてらわないもので、演奏スピードも平均的。個人的にはもっとショルティらしいパワフルな演奏が聴きたかったところです。
Sanderling もしドイツ的ショスタコーヴィッチという演奏があるとしたなら、クルト・ザンデルリンクあたりが筆頭にくるでしょう。
 ゆったりした演奏スピードのなかで、深々と、そして堂々と旋律を歌うショスタコーヴィッチです。時に、まるでブラームスのように響きます。
 ロシアの伝統を背負った指揮者たちが14分そこそこで演奏する第1楽章を、ゆったり17分30秒以上かけて演奏します。しかし、決して音楽がゆるんだり、緊張がほどけたりすることはありません。
 ザンデルリンクは全曲録音を残していませんが、全集を出して欲しい指揮者の一人です。

 ザンデルリンクと同じくらいゆったりと歌わせる指揮者にインバルがいます。
 インバルの指揮は、わたしにはとても不思議です。なぜなら、彼の音楽はまるで楽譜を解剖したかのように聴こえるからです。楽譜に書かれたすべての音符が、聴き取れるように感じられ、まるで時間を超えた音のように感じられることもあります。Inbal
 非常にゆっくり演奏しているように感じられるのですが、じっさいの演奏時間は普通だったりもします。体感と現実が食い違うところもある不思議な指揮者です。
 ザンデルリンクとインバルの1楽章を比べると、インバルの方が1分40秒ほども短いのです。
 そして4楽章のコーダについて、ヴォルコフの書いた『強制的な歓喜』という演奏があるとすれば、わたしはまっ先にこのインバル盤を挙げます。
 もちろん名演奏には違いありませんが、これほど曲の深読みを可能にする演奏も珍しいでしょう。
 インバルはマーラーでもこうした演奏を繰り広げ、9番などで不思議な魅力を聴かせてくれます。それがショスタコーヴィッチにも相応しいかどうか、それはみなさんの判断に任せることにしましょう。
 ゆったりと歌わせる5番ということでは、ショスタコーヴィッチの息子、マキシムのCDがあります。非常にゆっくりとした第1楽章は実に19分(18分59秒)をかけて演奏されます。ザンデルリンクより遅いのですが、緊張がしっかり維持され、けっして緩むことがありません。父ショスタコーヴィッチの親友であるムラヴィンスキーの対極を行くような指揮ぶりですが、これはこれで素晴らしい名演です。単純なロシア的な演奏ではありませんが、底なし沼のようなロシア的情熱を感じさせてくれます。
 
Barshai ショスタコーヴィッチの正統派演奏家として忘れてならない指揮者に、ルドルフ・バルシャイがいます。ロシア出身で、かつモスクワ音楽院で学んだため、正統派ロシア指揮者の一人と考えられています。
 わたしは彼の全集をよく聴きますが、現在売られている全集として、とても優れていると考えます。全体の演奏レベルが高く、値段も安くて手頃です。ショスタコーヴィッチの全集を探している方は、ぜひ一考してみてはいかがでしょう。
 高レベルの全集としては、ハイティンクもあります。ただ、マーラーにも言えることですが、ハイティンクには際立った個性や特徴がないことも事実。
 初めてハイティンクの5番を聴いたとき、その美しさと完成度に驚かされました。しかし、もう一つ心の深いところに迫ってこないもどかしさも感じました。全集に限っては、ショスタコーヴィッチ直接の弟子でもあるバルシャイに、軍配を上げたいと考えます。

 若手で、ショスタコーヴィッチの正統派演奏家と言えば、ゲルギエフが挙げられます。日本ではあまり人気がありませんが、コンドラシンのような爆発力を感じる情熱的演奏家の一人です。
Ozawa 上記の他にも、心に残っているショスタコーヴィッチ5番はいくつもあります。
 たとえば、2007年に録音されたマイケル・ティルソン・トーマスの演奏。これも素晴らしい演奏です。これはロシアの本流からみると、少し弱々しいかもしれませんが、わたしは感じるところの多い演奏の一つです。
 小澤征爾と斎藤記念オーケストラによる演奏も聴いておきたいもの。4楽章に少しわざとらしい仕掛けがあります。しかし、聴き手がはまれば大きな感動を得られる演奏でしょう。
 マリス・ヤンソンスとウィーンフィルも話題になった名演です。ウィーンフィルというオーケストラの素晴らしさも、名盤としての地位を支えています。この曲の新しい演奏の方向性を決定づけたと呼べる録音かもしれません。名演というより、美演と表現したい演奏です。
 ヤンソンスにはもう一つ古い録音があるそうです。残念ながらわたしは聴いたことがありませんが、第7番『レニングラード』の2種類の演奏から推測すると、わたしは若くて情熱に溢れた昔の演奏の方が、好みかもしれません。Muti
 余談になりますが、第7番『レニングラード』にはコフマン指揮、ボン・ベートーヴェンオーケストラによる文字通りの美演があります。

 現代の若い巨匠の一人、リッカルド・ムーティの演奏も素晴らしいものです。熱い情熱を感じさせる名演の一つでしょう。
 リマスターによる音響は、もしかしたら再生機によって好き嫌いが分かれるかもしれません。また、ムーティという指揮者によるショスタコーヴィッチが意外に感じられるかもしれません。しかし、スピーカーから響くのは紛れもない名演です。これは決して美演に分けられるものではなく、熱演とか、快演とか呼ばれる部類の演奏でしょう。
PianoDuo まだまだ素晴らしい演奏があります。
 わたしの家にあるものだけで、現在(2010年5月) 29種類あり、紹介させて頂いた盤以外にも素晴らしい演奏があります。

 ここでは最後に隠された名演を記しておきましょう。
 2台のピアノで奏でる交響曲第5番です。
 ピアノ盤を聴いていると、この曲が、あたかもピアノ用に創られたかのように錯覚してしまうほど素晴らしいものです。
 ぜひお聴き下さい。