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セルゲイ・ハチャトリアン

ヴァイオリニスト セルゲイ・ハチャトリアンについて

 昔からわたしはクラシック音楽が大好きで、さまざまな音楽家の演奏に感動し、そのCDを買ったり、演奏会に足を運んだりしてきました。50才を超えてから、わたしにもっとも大きな感動を与えてくれたのは、このセルゲイ・ハチャトリアンの音楽です。人生をふり返っても、これほどの衝撃を受けた演奏家は数名しか存在していません。そんなセルゲイへの気持ちを、素直にここに書いてみます。

 東北自動車道から山形道に入り、しばらく走ると、いきなり山形市が眼下に広がってくる。それが新緑の季節だったり、紅葉の季節だったりすると、美しさに圧倒されるような場所である。

 2009年の10月、わたしはそこを走っていた。
 カーステレオから、セルゲイ・ハチャトリアンの演奏するショスタコーヴィッチのヴァイオリン協奏曲第1番が流れていた。
 3楽章が始まって間もなく、まるで天上から山形市へと舞い降りていくような場所にさしかかった。
 すると、人間と自然の営みへの想い、それがショスタコーヴィッチの音楽と共に、わたしを圧倒した。
 溢れてくる涙には、さまざまな想いが込められていた。
Sergei_Khachatryan

 ショスタコーヴィッチのアンダンテやアダージョは、ベートーヴェンの直系に位置していると、わたしは想う。それは、ベートーヴェンからブラームスに受け継がれ、やがてマーラーが受け継いだ深い苦悩と、孤独を貫いたえもいわれぬ美しさの系譜である。

 そこには、人間の心と魂の根源に潜んでいる苦しみや悲しみを知ってなお、生きようとする何かが感じられる。存在の悲しみを知ってなお、愛を求める何かが感じられる。

 ベートーヴェンは弦楽四重奏曲や後期のピアノソナタで、人類史上初めてとも云えるほど深く危険な魂の探索をおこなったのだと、わたしは思う。後にユングがおこなう魂の探索である。
 ショスタコーヴィッチは、スターリンという独裁者の治世に生きざるを得なかった。そのため、想像を絶する悲しみや孤独のなかで、魂の探索をおこなわざるを得なかった。
 自分の知人や親族が、次々と殺されていくなか、音楽で人間の心の深淵を解き明かそうとしたのである。

 だからこそ、ショスタコーヴィッチの音楽は極めて深い孤独や悲しみに満ちている。その音楽は人間の残酷な側面も描いている。しかし、人間の残酷さや悲しみ、孤独の深みから、まるで悟りに近づく宗教家のように、わたしたちを救い出してもくれる。針の穴を通すように難しいのだが…。

 そんなショスタコーヴィッチの世界を表現するため、演奏家には深い人間への共感や感受性が求められる。
 ぜったいに力尽くでは表現できない世界がショスタコーヴィッチにはある。
 技量だけでは、近づくことさえ不可能な世界である。

 セルゲイ・ハチャトリアンは若く、健康であるにもかかわらず、そんな悲しみと孤独、諦観を、全身で表現している。そこには共感を超え、ショスタコーヴィッチの音楽だけが持つ妙なる美しさが響いている。
 セルゲイのショスタコーヴィッチは、これまでにないほど繊細な心の震えをとらえたのだ。

 フランクのヴァイオリンソナタにも、そんな繊細な魂の共振が感じられる。

 わたしは手に入る限り彼のCDを聴いてみた。
 そして感じたのは、セルゲイ・ハチャトリアンは今まさに開花しているということである。
 ショスタコーヴィッチに続くCDには、どんな曲を選ぶのだろう。
 彼の次のレコーディングが、わたしに何を教え、何を与えてくれるのだろうか。
 発売を、今から待ちわびている。