静寂の音
The Sound of Aurele Nicolet

 久しぶりに演奏会にいった。オーレル・ニコレのバッハ、フルートソナタの集いである。
 わたしがはじめてニコレのレコードを買ったのは、今から三十年近いむかしのことだ。たしか、フルートをやっている友人に勧められ、今回の演奏曲目と同じバッハを買ったように記憶している。レコードからCDの時代となり、そのレコードを聴くことはなくなったが、そこに流れる品格のある演奏は、今でもよく覚えている。
 それから十年ほどが経ち、わたしはジェームス・ゴールウェイというフルーティストに出会った。偶然から、彼の演奏会に招待され、やはりバッハのソナタを聴いた。
 今でもはっきりと思い出すことができるが、ゴールウェイの演奏はニコレのレコードとまったく異なっていた。そこには博物館に展示されているようなバッハではなく、切ったら血の流れるようなバッハがあった。音の一つひとつが息づき、豊かな感情に色づけられていた。そして、そんな体験から、わたしは二コレの演奏から遠ざかり、CDを買うときもゴールウェイの演奏を選ぶようになった。
 しかし、三十年の歳月を経て、ニコレは記憶よりもずっと暖かかった。そこには今でも命のあふれるバッハがあった。それはやや体を前に屈めて演奏する彼の姿とともに、生きることの鼓動を感じさせるに十分だった。わたしは満足し、まるで古い友と久しぶりに出会ったかのような気持で、アンコールを待った。

「…このアンコールは自分にとって、とても大切な曲です。トオル・タケミツ最後の作品『エア』で、彼の死の二週間前に作曲されたものです」
 演奏会場で奏者がしゃべることはめったにない。しかし、ニコレは低く振動する声で、こうわたしたちに告げ、やや黙想するかのように立ち止まり、演奏をはじめた。
 気がつくと、あたりが静寂という音に満たされていた。

 武満さんの曲を聴くたびに、思い出される光景がある。それはわたしが自閉症の子供たちを、スイミングスクールで教えていたときのことだ。
Goryu
 子供たちをプールサイドにすわって並ばせ、バタ足を指導する。足をつかんでバタ足をさせようとするのだが、彼らのほとんどが直接的な肌のふれあいを避けるのだ。そのため、プールサイドを走って逃げようとするものがでたり、プールに落ちてしまう子供がでた。怒ったり、なだめたり、すかしたり。時には自分がまいってしまうこともあった。ところが、こうした間中、彼らの抱えているとてつもない孤独感が、わたしにひしひしと伝わってきたのである。それは単純な孤独という言葉では表せない虚脱感、孤立感、あきらめとでも呼べる感覚だった。
『彼らは人の間では生きられない』
 そんな思いすら浮かんだことがある。もしかしたら、彼らは人間関係が難しくなりつつある現代を敏感に感じ取り、それにかかわる前に、自から心を閉ざしてしまったのではないだろうか。そう信じられることすらあった。
 武満さんの音楽を聴くたび、わたしはもう一度彼らといっしょにいるかのような錯覚におちいる。
 それほどの静寂と孤独の世界。
 ニコレはそんな武満徹の音楽を、まさに彼自身の体験として吹いているよう感じられた。そして、その瞬間、ニコレがなぜ現代最高のフルーティストであるかを、わたしは理解できたように思えた。
 彼のバッハはたしかに美しく価値がある。しかし、彼の武満徹はわたしたちに直接疑問を投げかけ、わたしたちの生き方そのものを問うているように感じられるのだから。
「わたしたちはこれでいいのか」
「進む方向はこれでいいのか」と。

 小学校の先生をしている従姉妹が、わたしにこんなことを語ったことがある。
「こどものなかにはわたしが何を言ってもまったくこちらに注意を向けない子がいる。反応があまりになく無表情なので、耳が聞こえないと思ったり、自閉症だと思ったりしたこともある。彼らはたくさんのクラスメイトにかこまれ、大きな騒音に包まれていても、ほんとうに孤立している。そんなこどもが、年を追うたび増えている。現代という時代の病が、こどもに移っているのではないだろうか?」
 心を閉ざして生きる人間が、増え続ける現代社会。
 武満さんはそんな時代をいち早く感じとり、音として現したかのようだ。しかも、騒音と情報にあふれた現代への痛烈な批判を込めて。静寂とゆったりした時間への憧憬を込めて。
 まるでナイフのように胸の奥深く切り込んでくるニコレのフルートを聴きながら、わたしはこんなことを感じ、探るべき未来を想った。
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