Tsunokai Masahito's Musical Essay
音楽とわたし
 
Classical Music and My Life
1990年代に書いたエッセイを2009年に手直ししました。
「音楽は人々の精神から炎を打ち出さなければならない」
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーベン

 「生まれて成長する過程において、あなたにとって何が強い影響力を持っていましたか」 
   そう問われたなら、わたしは躊躇なく音楽と答えることができます。

 五十数年間になんどか経験した人生の危機。そんな場面で、それぞれ異なった音楽が、わたしの心に流れ、大きな力と意味を与えてくれ、助けてくれました。この文章はそんな音楽に似ているかもしれません。なぜなら書くことで、わたし自身がひとつの殻を破ろうとしているからです。

 十五歳の時、わたしは人生ではじめての挫折を味わいました。
 水泳選手として順調に伸び、大きな夢を持っていたにもかかわらず、体をこわし、泳ぐことができなくなったからです。
 病院から学校に戻っても、まるで違った世界に投げ入れられたかのように感じざるを得ませんでした。どこにも自分の居場所がないように感じ、しだいに授業をさぼるようになりました。学校裏手にある観音山をさまよい、河原で流れる水を見てすごす時間が長くなりました。

  そんな頃、偶然のようにあるレコードを聞いたのです。
  激しい冒頭の和音は、崩れかけていたわたしの心を、打ち倒すに十分なものでした。そして、何度も繰り返される「生は暗く、死もまた暗し」という言葉が、まるで自分の心から叫ばれているかのように感じられました。

 その時まで、わたしが好きな音楽はモーツアルトでした。特にジュピターと呼ばれる明るく力強い交響曲41番に強くひかれていました。しかし、この時わたしを打ちのめし、虜にしたマーラーの「大地の歌」は、モーツアルトからほど遠い暗い情念と孤独な悲しみに満たされた世界で、わたしを魅了したのです。
 毎夜、「大地の歌」に聴き入りました。
 音楽と共に孤独に沈み、沈鬱な悲しみに包まれ続けたのです。すると、不思議なことが起こりました。なぜなら、孤独を深め、より悲しみを増す音楽を聞き続けたにもかかわらず、それはわたしをいつしか勇気づけはじめ、ふたたび立ち上がらせてくれたからです。
 そのさまを描写しているかに思える詩が、曲のなかで歌われています。
『…春になれば、愛しき大地には緑が芽生え、ふたたび花は開く…』
 討ち果てた野に春が来て、すべてに命が満ちるように、わたしはもう一度歩きはじめることができたのです。

 この頃の経験に、ひとつ忘れがたいものがあります。
 ふさいでいたわたしに、母が一枚の演奏会チケットをプレゼントしてくれた時の記憶です。それは東京文化会館でのカラヤン指揮、ベルリンフィルハーモニーのコンサートでした。

 まだ心の傷から立ち直っていなかったわたしは、およそ手がつけられないほどひねくれていました。世界中のすべてを憎んで、何よりも自分自身であることを嫌悪していました。世界中の成功者や幸せな人々を憎んでいました。ですから、その嫌悪すべき相手がヘルベルト・フォン・カラヤンともなれば、憎しみも格別でした。

 この頃のわたしには神のごときバッハより、脆さを持つマーラーが美しく、完璧な技巧を聴かせるポリーニより、悩むようにピアノを弾くルプーのほうが好ましかったのです。ですから、よぼよぼしたカール・ベームに尊敬を感じることこそあれ、ハンサムでさっそうとしたカラヤンなど憎悪の対象でしかありませんでした。加えて時代的にも、カラヤンを批判する人が増えつつありました。
Lamp
 帝王と呼ばれ、音楽を黄金に変える錬金術師と陰口をたたかれるカラヤンの演奏など、屈折したわたしの心に入り込めるはずはないと信じていたのです。会場に到着する前から、カラヤンに対するさまざまな批判が頭に浮かびました。しかも、曲目はわたしの軽蔑していた感傷的チャイコフスキーです。
 沈んだクラリネットのソロから、交響曲第5番が流れはじめた。
 音のうねりに引き込まれまいと必死に抵抗している自分に気づくのに、あまり時間はかかりませんでした。第一楽章のわずかなパッセージで心は揺さぶられ、沸騰し、もはや征服されつつあったのです。第二楽章がはじまって間もなく、わたしは屈服しました。音の流れに身を任せ、チャイコフスキーの悲劇に泣き、その意志と情熱に酔ったのです。音楽は波動となり、魂を震撼させました。

 壇上のヘルベルト・フォン・カラヤンは背筋を伸ばし、微動だにしませんでした。前方に伸ばされた腕のタクトすら動いているように見えません。非情なほど抑制された動きにもかかわらず、オーケストラから雷雲が生まれ、稲妻が走り、雷が絶叫したのです。彼のなかに、凍りつく冷徹な精神と、燃えたぎる情熱が、同時に存在しているようでした。
 今でもすばらしいスキーヤーに接すると、この時のカラヤンの姿が重なって見えることがあります。

 終楽章が終わり、嵐のような拍手のなかで、わたしは身動きできませんでした。手をたたける聴衆の神経が理解できなかったことを、今でもよく覚えています。

 それから年月が流れ、不思議なきっかけでスキーをはじめました。
 取りつかれたように滑っているうち、ようやく道が開けるかに感じられた。そんな1981年の暮れ。わたしは急性化膿性関節炎という奇病に犯されたのです。ヒザの関節でした。すでに全日本チャンピオンとなり、カナダでの国際大会にも優勝。急上昇していたわたしは、ふたたび地獄へと突き落とされました。

 すべてを失ったように信じられ、病室で自らを抜け殻のように感じていました。そんな時です。FMラジオから流れる音楽に突然、胸ぐらをつかまれたのです。激しい楽章に続き、静かで深い楽章がはじまると、涙があふれてきました。どうしようもないほど体がふるえ、涙とふるえは音楽が響いている間中止まりませんでした。
 曲が終わり、それがブラームスのピアノコンチェルト1番であることをメモに書きとめながらも、涙は流れ続けました。

 それまで、わたしはブラームスが好きでありませんでした。理解ができなかったのです。友人には信奉者もいたのですが、その瞬間までどこかでブラームスを「敗残者」のように感じていたのです。しかし、命がけで築いた世界が崩されるような経験を経た後、ブラームスは深い意味を持ってわたしに迫ってきました。
 その音楽は鼓舞する力だけでない深い慰めにも満ちていたのです。
 あの時、ピアノ協奏曲第1番が流れてこなかったなら、わたしはスキーをあきらめていたに違いありません。
 もしそうなっていたら、スキーというスポーツには、苦い思い出だけが残ったことでしょう。

 あれからすでに三十年以上の月日が流れました。
 今でもなおわたしは滑り、飛び続けています。五十才を越えてからは水泳でも現役に復帰しました。

 「大地の歌」やブラームス・ピアノコンチェルト第1番、ジュピターなどの音楽は、汲み尽くせない魅力で、今でもわたしの心に流れています。
 昔より大きく、美しい音で…。
Music 音楽のトップへ
Home ホームへ戻る