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フランス音楽はわたしにとって、とても不思議な音楽です。
あれは小学校の時でした。はじめてドビッシーの「月の光」を聴いたときの驚きを、今でもよく覚えています。オーケストラ用に編曲されたもので、あまりの美しさに、心が溶けてしまうのではないかと思ったほどでした。
その後、ミケランジェリのドビッシーに魅せられたり、サンソンフランソワのラヴェルに魅せられたりした時期がありました。特にラヴェルのピアノ協奏曲をずいぶん聴いたものです。
しかし、クラシック音楽を聴く中で、ドイツ音楽を聴いている時間にくらべると、わたしはあまりフランス音楽を聴いていません。もちろん、好きな曲はたくさんありますが、なくてはならないというほどの曲は、それほどないのが実状です。ただ、そんなフランス音楽の中で、フォーレだけは例外です。フォーレはわたしにとってなくてはならない存在です。人生の大切な節目節目で、わたしはフォーレに何かを求めて音楽を聴き、何かを与えられ、慰められてきました。
フォーレの音楽は美しさに満ちています。そして、なぜか落ち着いた安らかさに満ちています。みずみずしい感性の響きと、繊細な心の詩があります。
話は音楽からスキーに飛びますが、ワールドカップに出場している時分、わたしはずいぶんたくさんの国を回りました。ほとんどの国で心暖まる経験をしてきました。しかし、そんな記憶のなかで、フランスだけに寒々しい思い出が刻まれています。
フランスはわたしにとって、虚栄心と排他的な風潮の強い国と映りました。どんな国にも魅力と欠点とが見えるものですが、フランスだけは実体験として魅力を感じたことがありません。きっと、わたしはフランスのほんとうの魅力に出会うチャンスがなかったのでしょう。そして、もしも「よきフランスというものがあるとしたなら、それはきっとフォーレの音楽のようであるに違いない」と、心のどこかで思い続け、憧憬を感じ続けています。
フォーレの音楽の中で、特に好きなものに「夜想曲集」があります。そこに流れる音楽はフォーレ以外の誰も真似のできない透明感と繊細な音にあふれています。しかし、うまく弾くことはとても難しい曲なのではないでしょうか。楽譜を見たことはないのですが、ショパンのように明確な旋律線がなく、絡み合う音が入れ替わり織りなしていく曲想。それはとても不思議な音楽です。
フォーレのピアノ曲の多くが、そうした入り組み、糸が絡み合ったような旋律を持っています。あたかも、和音を試し、その響きで何かを表そうとしているかのような微妙な進行を見せます。そのため、演奏家によって、まったく違う顔を見せることもあります。
いっぽう、オーケストラによる有名な『レクイエム』はピアノ曲と異なり、非常に明確な旋律線が流れています。もちろん、合唱という要素があるからでしょうが、フォーレの美しさと純粋さが、あまりにも強調され、聴くのが恐いような気持ちになることすらあります。
「どんな時、わたしはフォーレにひかれてきたのか?」
それを思い起こしてみると、わたしはこれまで、極端な孤独を感じた時ばかり、フォーレの音楽を求めてきたように思います。そこにある純粋な世界の中に、自分の孤独を休らわせる何かを感じてきたように思います。
フォーレは孤独でありながらも、心の中に強い信仰を持ち、芯の強い命を持っていたのではないでしょうか。そんな彼の音楽が、どこかでわたしを慰め、力づけてくれるのでしょう。 |
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