不安の時代に聴く ベートーヴェン - Cavatina

 近頃、たくさんの人たちがブログを書いています。わたしのスクール関係の仲間たちもたくさん書いていて、なかにはかなり個人的(private)な内容を書いているものもあります。
 そんなブログには何とも言えない“不安感”を感じさせるものが多いです。
Cavatina
 ブログからだけでなく、わたしの周りにいる若者たちが発している漠然とした“不安感”・・・それこそ、今という時代を反映しているように思えてなりません。
 それともフリースタイルスキーヤーたちだけが、特別そうした不安を感じているのでしょうか?
 もちろん、わたしにも不安はあります。
 高校一年生以来、人生への強い不安や、経済的不安を感じずに暮らしたことは今まで一度もないほどです。
 そんなわたしは強い不安を感じるたび、ベートーヴェンや宮沢賢治の生涯を思い起こします。

 昨日亡くなられた指揮者、岩城宏之さんと同じように、わたしのもっとも尊敬する人間はベートーヴェン。そして、日本人でいちばん尊敬しているのは宮沢賢治でしょうか。
 二人とも外面的には決して恵まれた人生を歩んだとは言えません。それどころか、宮沢賢治など、かなり悲惨と言ってもいい生涯をおくったように見えます。しかし、それはあくまでもまわりの評価がそう判断しているだけで、本人たちは人生を懸命に生きるあまり、まわりの見解など気にする余裕もなかったのではないでしょうか?
 そして、二人の精神が住んでいた世界こそ“第9交響曲”の故郷であり、“銀河鉄道の夜”の生まれ育まれたところであり、“カヴァティーナ”を含む晩年の弦楽四重奏曲群やピアノソナタ群、そして“セロ弾きのゴーシュ”の古里です。

 これまでも時々考えたことがありますが、たとえば“カヴァティーナ”を理解するためには、たくさんの経験が必要となります。
 ベートーヴェン晩年の音楽は、人生の悲哀や辛苦を抜きに理解することはできないでしょう。そのため、それを理解できるということは「実は不幸な人生を歩んでいることではないか…」と考えたことすらあります。
 人生をラッキーなだけで生きてきた人や、自分の欲望や希望、絶望を通過せずに生きた人に、ベートーヴェン晩年の音楽はその扉を閉ざします。だから、若くして大きな成功を得た人にとって、こうした世界を理解することは難しいかもしれません。
 しかし、それを理解できない人を、わたし自身はほんとうに認めることができません。
 ヘルマン・ヘッセやロマン・ローランはこうした感情について、非常に踏み込んだ内容を書き残しています。そんな彼らの文章は、純粋なエネルギーの宝庫です。

 わたしが考えるに、ベートーヴェン晩年の世界に通じるためには、自分をしっかりと見つめること。そして、絶対に不安を避けないことが必要です。
 不安と向き合うと言ってもいいでしょう。

 余談になりますが、今年(2006年)におこなわれたサッカーのワールドカップで、オーストリアとの敗戦を強く受け止めようとせず、見つめることもしないで、すぐ次に向かおうとするたくさんのサッカーファンの姿。それを見ると、どうしても今ひとつ、サッカーにのめり込むことができません。選手たちのなかには気づいている人もいるに違いないのですが…。

 ベートーヴェンの“Cavatina”は弦楽四重奏曲13番にある一つの楽章ですが、独立して演奏されることも多い曲です。カヴァティーナを聴くたび、わたしには「人類がもっとも美しく昇華させた“不安”」ではないかと感じられてなりません。もちろんそれを哀しみと言い替えることもできるでしょう。しかし、単なる不安や哀しみを通りすぎ、音が侘・寂という世界まで突き抜けているように感じられてなりません。
 ハンマーグラビア・ソナタのアダージョを“苦悩の霊廟”と呼んだのはロマン・ロランですが、カヴァティーナは“不安の霊廟”と呼べるかもしれません。

 カヴァティーナにはたくさんの名演がありますが、わたしが好んで聴く演奏はアルバン・ベルグ四重奏団が1989年にライブで録音したものです。
 これを読まれたみなさま、ぜひチャンスを見つけて聴いてみてください。
 それから、「これぞ」という名演を知っている方、ぜひご連絡をお願いします。

Alban Berg

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