Tsunokai Masahito's Belief
角皆優人の信念

 大和魂
Lake_and_Ray
 みなさん、「カラテキッド」という映画を見たことがありますか?
 この映画にでてくるミヤギさんというカラテの師匠は、わたしの大叔父にそっくりです。
 大叔父の正確な生まれ年は分かりませんが、たぶん1910年代、アメリカに生まれたと計算できます。義務教育を日本で受けるため、いったん日本に戻り、ふたたびアメリカに戻った「帰米」と呼ばれる日系二世です。
 第二次世界大戦が始まると、彼の両親の家(ハリウッド)はアメリカ政府によって没収され、財産は差し押さえられました。歴史に悪名を残す日本人キャンプへと送られたのです。
 ちょっと話がそれますが、ハリウッドでもっとも古いキリスト教会はこの大叔父の父、つまりわたしの曾おじいさんによって建てられ、まだ現存しています。
 そんな状況の中、わたしの大叔父はアメリカ陸軍に志願し、ヨーロッパ戦線で戦ったと聞いています。イタリアでは何度も死線を越える戦いをしたそうです。
Mark_Masahito
 わたしは二十代の後半、七十を越える叔父と腕相撲をし、負けました。大叔父は身長が160cmに満たない小男で、頭はつるつる。決してハンサムとは言えませんでしたが、活き活きとした魅力に満ちた男性でした。
 毎日、仕事を終え、自分の家の庭に座り、池の鯉を見ながら一缶のビールを飲むことを無上の喜びとしていました。
 敬虔なクリスチャンだったため、どうも二缶目を飲むことには罪悪感があったようです。わたしが二本目のビールを取りに行き、手渡すと、よくこう言ったものです。
「日本の息子(わたしのこと)にはめったに会えるものじゃないから、しかたないから、もう一本飲むか?」
 また、わたしがまったくアルコールを飲まないことも、ちょっと大叔父に飲むことをためらわせたようでした。
「たまには良弥(わたしの父)さんとも一緒に飲まなければダメだよ」
 そして、ほんとうにおいしそうにビールを飲み干しました。

 九十才を超えてなくなりましたが、わたしの目標にしている男性の一人であり、かつわたしに日本人の素晴らしさを教えてくれた人間です。

 叔父はよく、「すべては心にある」と言いました。彼は庭いじりと盆栽が好きでしたが、「庭や盆栽には、手入れする人の心が映り、その姿を見せる」と言いました。「だから、庭や木を見れば、その人がわかる」と言いました。
 カラテキッドの映画で、ミヤギ先生が次のように言うとき、わたしにはあたかも叔父が語りかけているように聞こえてなりません。
「Karate here (こう言ってミヤギさんは胸を指さします), Karate not here (こう言ってミヤギさんはゲンコツを指します)」

 マーク大叔父との時間を思い出すにつけ、思い出すのはその静けさです。
 彼が静かなのではなく、彼を取りまく空間が静かなのです。大叔父とはずいぶん会話しましたし、大笑いもしました。何と言っても、マークはユーモアに富んでいましたから。わたしの白人の友人たちが、特に女性たちが、どれほどマークの話に腹をかかえて笑ったことでしょう。しかし、マークと二人ですごした時間はいつも静かに、じっとその場に留まるかのように思い出すことができます。現在の日本で、あのような時間を感じることはめったにありません。もちろん、アメリカでもカナダでも、あのような時間は、長い間感じたことがありません。
 マーク大叔父の事を思い出すにつけ、わたしの心には『静寂』という文字が浮かびます。そして、『大和魂』という言葉が浮かびます。同じことがマークの妻であったカズおばさん(写真下右中央)の生き方にも言えます。

Mark_with_girls

 わたしたちは第二次世界大戦で、大和魂を破壊しました。
 ほんとうなら「大きく和する魂」であった日本人の「心の古里」とも言える精神は、「破壊」をめざし、その中で核をうち砕かれてしまいました。やがて戦後教育の中で、大和魂という言葉は多くの人にとって、非合理的な日本軍人の精神であり、「殴ること」「苦痛に耐えること」と言った意味しか持たなくなってしまったのではないでしょうか。
 マーク大叔父を思い出すにつけ、アメリカ人であり、アメリカ軍人であったにも関わらず、彼こそ、わたしに日本人を感じさせてくれた人だったことを痛感します。そして、『大和魂』という言葉を思い出させてくれた人であり、祖国の素晴らしさを思い出させてくれた人であることを思い出します。

 今年の夏(2002年)、F-style では二つの新規事業を興しました。白馬のウォータージャンプと、大阪のX-techです。
 白馬五竜のエアフィールド建設が進むにつれ、わたしのジャンプは崩れていきました。どうしても、よいジャンプが飛べなくなっていきました。棒ジャンプすら飛べないのです。この状態は日増しにひどくなり、どうしようもないほどに崩れました。

 しばし、白馬を離れ、兵庫県大屋のウォーターに到着したとき、わたしはじっと座ってみました。
 大屋は山深いところにあります。そして、まわりには文字通り、何もありません。
 静かな時間の中で、あたかもマーク大叔父とすごした時間でもあるかのように、わたしは自分を見つめ直そうと、心に沈みました。すると、五竜での建設過程が、わたしの心のバランスを失わせていたことに気づいたのです。それに気づいたとき、その現実を見つめ、それを受け入れることができるよう、その感情を感じ続けました。
 すると不思議なことが起こりました。ジャンプが良くなっていったのです。
「Jump here(心), jump not here(体)」
 心のバランスが、そのままジャンプのバランスに現れるのを痛感した1ヶ月となりました。
White_flower
 近頃、わたしは次のように感じています。
「日本人が大和魂を失っている限り、日本人の命は『心の伴わない儀礼』のようなものでしかないのではないだろうか」
 オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」を読むとき、かつての日本人が、どれだけわたしたちとかけ離れたところにいたかを知ることができます。ヘリゲルが必要以上に美化しているのではないか、と疑いたくなるほどです。
 しかし、マーク大叔父の姿を見ているわたしは、「マークの生きた一時代前の日本人には、そんな人々がたくさんいたのではないか」と信じられてなりません。
 わたしたちは大和魂を、失ってしまったのでしょうか。それとも、忘れているだけなのでしょうか。
 9月11日のテロ事件をすぎ、世界は大和魂を必要としています。
 それは日本に昔あった、本来の大和魂です。

 単なる精神論ではなく、薄い科学論でもなく、科学と精神が融合し、神秘論をすら超えた大和魂。その再現を世界は待っています。そして、わたしたち日本人自身が、今まさにその復活を必要としているのではないでしょうか。

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