祖国や愛国心ということについて
2006年6月12日

Mt.Fuji
 今日は祖国や愛国心というたいへん難しい問題について書いてみようと思う。
 なぜなら2006年6月の今、教育基本法の改正が問われ、憲法改正のぜひが問われているから。

 自分の心をのぞいてみると、そこにあるのは非常に屈折した愛国心であることに気づく。
 もし、わたしがアメリカに行かず、アメリカで生まれ育った自分の親族に会っていなかったとしたなら、愛国心そのものを持っていたかどうかさえ疑問である。
 わたしの心にある愛国心はひとえにアメリカ育ちの日系人によって教えられ、創られたものだ。

 正直、国に何かをしてもらったという感情は薄い。…無いに等しい。
 たくさんの直接税や間接税を払っているという意識はあるが、それに等しい恩恵を受けているという実感がない。つまり、自分が国を創っているという意識は薄く、国に搾取されているような奇妙な意識が育っているのである。
 20代、フリースタイルスキーのナショナルチーム員として日本代表と呼ばれ、ワールドカップを転戦するという経験を持ちながらも、国からの恩恵を受けた記憶や感情は育っていない。

 わたしだけでなく、愛国心のある日本人はたいへん少ないのではないだろうか。
 ここ数年、仕事を通じてアメリカ人や韓国人と親しく接しているが、彼らの国に生まれ育った人たちに比較するまでもなく、愛国心のレベル、質、量、どれをとっても、日本人には育っていないと感じている。それどころか国に対し、敵意のようなものを持っている人すら多いのではないだろうか。
 「愛国心に欠ける」という問題の多くは、教育に根ざしているのかもしれない。
 高校時代、強烈に日本の教育制度に疑問を持ったことがあり、それ以来海外に育った人と知り合うたび、彼らの受けた教育について質問を重ねてきた。
 彼らから聴いたことや、自分が見たり経験したりしたことから考えると、短絡的意見かも知れないが、戦後の日本にはずっと“愚民教育”がおこなわれていたのだと考えざるをえない。
 日本の教育は「自分で考えず、上からの指示に素直に従う人間」を造り上げることが目的だったのではないかと疑ってさえしまう。

 “教育は国家百年の計”という言葉があるが、2006年の今は戦後61年。もう40年ほどで日本は壊滅してしまうかもしれないと思わせるほどの国と人心の乱れようである。

 教育最大の目標は人格形成にあるように思う。
 しかし、中学までの教育に「義務」という名前が付いている限り、その国で生きていくために必要な最低限の「国の仕組み」を教える必要もあろう。
 しかし、日本で毎日生活するため必要な「政治」や「経済」について、わたしは何も教育を受けていない。  実践的な社会システムや税金についての教育も皆無である。法律についても、庶民に関係するであろう具体的な内容を教育されていない。第一、自ら努力しない限り、そうした重要なソースにアクセスできない構造である。毎年かなりの支払いをしている国民保険や今話題の国民年金についても、義務教育で教わった記憶はない。

 こうした教育構造や社会構造を生みだした土台に、アメリカ占領軍の“War Guilt Program”があることは事実だろう。しかし、それに反発するかのように反アメリカの姿勢を貫いたはずの日教組は、これまで何をやってきて、これから何をやろうとしているのだろうか。
 わたしは“War Guilt Program”について勉強してきた。しかし、日教組についてはほとんど何も知らない。現場にたずさわってきた日教組の歴史を、これから自分なりに勉強していきたいと感じている。
 日下教育研究所の日下先生は日教組について以下のように書かれている。
「戦後教育が、『日本人を変質させよう』としたのは紛れもない事実です。その企みがあった上に、戦後の日本教育界が、結果的にその戦略を促進するような作用をしました。それは、戦後の組合運動の隆盛で『日教組』が、教育に対して大きな決定力を持ってきたことでした」
 教育基本法が問われる今、日教組の声とはどんなものなのだろうか。

 2006年6月の今、マスコミはワールドカップ・サッカー一色に塗られている。
 オリンピックやワールドカップ・サッカーは、世界的な政治活動であり、大企業による一大キャンペーンという側面もある。もちろんスポーツそのものに魅力や素晴らしさはあるけれど、見る目さえあれば、日々地域でおこなわれているマスターズのレースやモーグルの草大会にも、そんな素晴らしさを発見できるはず。
 マスコミが持ち上げ、ブームを創り、大金をかけて舞台作りがされなければ、振り向かず、感動もしない日本人こそ、愚民政策の犠牲者であることを示していないだろうか。他人の仕掛けたセットのなかで熱狂するサッカーファン。そして、スター扱いされる選手たち。

 これからのわたしたちに、「強制される愛国心」など必要ない。
 自らの内部からあふれてくる「愛国心」こそを必要としている。
 そんな祖国と社会を築くためには、個人の一つ一つの判断と選択が重要となる。
 「何をよしとするのか?」 
 そして「何を買うのか?」
 それらがすべての国民に問われてくる。すべての会社やその構成員に問われてくる。
 愚民教育によって、たっぷりと色づけされた日本人が、自分で自分の色を変える作業や、精神的な自立を得るための経験が必要になってくる。
 それに必要なものは強烈な倫理観とヴィジョンだろう。
 そのなかには貧しさに耐える心構えも必要かもしれない。大部分の人がそうした心構えを持ち得たなら、精神構造が変わり、ヴィジョンを持つ人のところに、富というエネルギーが集まってくるかもしれない。
 現在は残念ながら、エネルギー(金銭)が集まるところに「未来を変える力」は少ないように思う。それともエネルギーが強まるにしたがい、堕落していくのだろうか。

Mountains

 どうしたら、これからの日本を「子孫たちに愛される日本」にできるだろう。
 そのためにも「自分たちが愛せる日本創り」をしなければならない。自分たちが愛せない国を、子どもたちに愛するように教えられるはずがない。
 そのスタートはまず自分のまわりだろう。
 あなたの周りに、どれだけ「あなたが愛する人」と「あなたを愛する人」がいるだろうか?
 あなたの周りに、どれだけ「あなたが愛する環境」があるだろうか?
 そこからはじめるのが正当な方法であろう。
 もし、自分の周りに愛と美が存在しないなら、そんな環境に子孫を残したいとは誰も感じないだろう。
 まず、自分の周りに、自分も含めて参加している人が快適に感じる空間と時間を創ること。そこからはじめるのが現実的である。

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