原罪を考える
 2007年11月2日

 2007年11月の今日は、難しいことを書いてみようと思います。
 それは、「生きることの後ろめたさ」、ということについてです。

 思春期をむかえてからずっと、わたしには生きることへの後ろめたさがつきまとってきました。それは今でも変わっていません。生きることの辛さとか、罪悪感が、いつも存在しています。

 最初は、自分がおかしいのだと思いました。
 世界中で、自分だけがこんな悩みを持っているのではないか…とも感じました。
 自分だけが異質で特異な存在で、他の人と違うのでは…とも感じました。
 このまま行くと、どこかで、自分で自分を破壊してしまうのではないか…と感じたこともあります。

 そんななかで、ヘルマン・ヘッセを知り、マーラーを知り、はじめて「うしろめたさを感じていたのが、わたしだけでない」ことに気づき、ようやくここまで生きながらえることができたように信じられます。
 ヘッセやマーラーという偉人たちが、わたしと同じように「生きることへのうしろめたさ」を感じていたことを知って、大いに勇気づけられた記憶があります。



 ヘッセの「荒野のオオカミ」を読むとき、そしてマーラーの「大地の歌」や交響曲を聴くとき、そこに流れる強烈な「生きることへの罪悪感」に圧倒されます。そして、よくあれだけの重圧のなか、彼らは生き延びてきたと感じます。

 また、生きるだけでなく、生きることと密接なつながりを持つ「性」というものにも、わたしはどこかうしろめたさを感じ続けています。
 「人類は地球のガン細胞」と考えたり、「エイズウイルスと人間は似ている」などと考えたりする根底には、わたしの「生きることと性へのうしろめたさ」があると考えられます。

 しかし近頃、世の中に、わたしと同じような感性から発せられる言葉が多く響くようになりました。それらを聴くとき、「生きることへのうしろめたさ」を感じる人間が増えてきたのではないか、と思います。
 もしかしたら、「生きることへのうしろめたさ」は、人間の歴史と同じくらい古いものなのかもしれない…などと考えてみることもあります。


 人間の歴史でもっとも古い罪の意識を、キリスト教では『原罪』と呼びます。
 ヘビにだまされたイブが、知恵の実であるリンゴを食べたため、楽園を追われるという物語です。
 この物語で、失楽園の原因となっているのが、「知恵の実を食べたこと」というのが、わたしにはとても興味深く思えます。
 なぜなら、善悪を知ることが、楽園を追われる原因となっているからです。そこに、いくつか考えさせられるところがあります。

 善悪というのは人間の価値観です。
 つまり、「地球に人間の価値観を持ち込んだことが、人間の破滅につながる」と考えているようなところがあるからです。

 少し話がずれますが、コンピューターというのは、「0と1だけで作られている」と聞いたことがあります。二進法と呼ばれるものです。
 こうした二進法と二分法は、どこか似ています。そして、二分法という思考方法こそ、知恵と呼ばれるものであり、長い間、西欧の歴史を動かしてきたものではないでしょうか。

 善と悪
 キリスト教徒と異教徒
 正と誤
 天と地
 明と暗
 始まりと終わり

 こうした考え方を続けた長い梯子のなかで、科学と呼ばれるものが生まれ、産業革命が起こり、現代文明が生まれてきたと考えられます。つまり、知恵が現代の地球温暖化や公害や、さまざまな問題の原点にあると考えられないでしょうか?
 そんな二分法から、コンピューターの二進法へつながったと考えると、不思議に納得できます。

 知恵の実を食べたアダムとイブは、「裸であることに気づき、恥ずかしくなって木の葉でその身を隠した」そうです。
 裸が自然体である動物なら、そんなことは考えません。
 楽園は寒くも暑くもなかったはずですから、寒くて服を着るというのとは違います。
 この物語が事実なら、「彼らが隠したものは性器であり、性器を見て恥ずかしく思った」ということでしょうか。
 そうだとすると、人間にシーズン(繁殖期)がないというのも、興味深く思えてきます。人間にはシーズンがないのではなく、人間はいつもシーズン(繁殖期)なのです。
 地球や宇宙との調和を切り離した『人間の知恵』は、いったいどこに向かっているのでしょう。


 近頃、マーラーを好きな音楽愛好者が増えています。
 彼らの数が増えているということは、「自分が生きることにうしろめたさを感じる」のではなく、もっと大きな「人間であることのうしろめたさ」というものが、理解されつつあるのではないか…という気もしてきます。

 どちらにしても、人間の食べた知恵の実は、ほんとうの知恵を授けてくれはしなかったように信じられませんか。
 これから、わたしたちは自分たちで、ほんとうの知恵の実を探して、食べなければならないのではないでしょうか。
 かつて、東洋にはそんな知恵の実がたくさんありました。仏教や道教など、キリスト教と反対を向くような教えがありました。
 しかし、文化的に見て、現在の地球はキリスト教の感性に支配されています。
 イスラムとキリストの対立こそ、こうした大掛かりな歴史の葛藤のひとつです。
 ほんとうにキリスト教が勝利することが、地球に平和をもたらすのでしょうか?
 それより何より、勝利という言葉に表される価値観を求めることが、地球の未来につながるのでしょうか?

 もっともっと「生きることの罪悪感」を持つ人間が、世界をリードしなければ、イブの奪った間違った知恵が、人間を滅ぼすのではないでしょうか?

 「今、何ができるか?」ではなく、「今、何をしないか?」が問われているように思えてなりません。
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