Calgary_Tetsu 根ということについて
…2003年11月14日の朝に…
ひとつだけ言っておきたいこと
     …旧友との再会…

 工藤哲史と最後に会ったのはもう、7年も前になるだろうか?
 20年前、全日本選手権を共に戦い、ワールドカップを転戦した友人。
 そんな彼は日本人男性として初めて、フリースタイルスキーでオリンピックを戦った選手でもある。
 スキー連盟のナショナルチームコーチとしても、ほぼ同じ時期を努め、苦楽を共にした。もっとも楽はあまりなく、苦ばかりだったような気もするが…。

 彼とは不思議な縁がある。
 まず、ある会社からわたしが入社の勧誘を受けた時、わたしは断った。そして、彼がわたしの受けるはずだったポジションを引き継いだ。
 彼が入社した会社はスキー場を開発していた。しかし、ある事情からその会社が撤退した後、わたしがそのスキー場と契約を結ぶことになった。
 今回、北海道で会ったのも、同じように不思議な縁だった。
 わたしが運営に関わることになったスキー場を、彼が設計したというのである。
 そう考えてみると、わたしがヒザを痛め、選手として大きな限界にぶつかったとき、彼がまさに「彗星のごとく」フリースタイル・エアリアル界に光り輝いていたこと。やがて時がまわり、わたしが彼のコーチとなったこと。思い出すと、どれも意味あることに思えてくる。
 オリンピックで初めて、フリースタイルスキーがおこなわれたのはカルガリー(1988年)。そこに工藤哲史と藤井博子が参加した。
 藤井はフリースタイルスキーを始めた当初からわたしがコーチした選手であり、工藤はかつてのライバル。彼らを引き連れてのオリンピックは、わたしにとってほんとうに大きな意味を持つできごとだった。

 わたしが全日本スキー連盟の選手になった25年前、不思議に感じたことがある。
 それは担当役員にかつての有名選手がほとんどいなかったことだ。
 元全日本チャンピオンの清水康久さんはいた。第1回全日本選手権の会場でただ一人、会場作りに追われていた姿が、今もわたしのまぶたに焼き付いている。
 しかし、他に誰がいただろう。
 その後のコーチ陣にも、かつての有名選手はいなかった。
 わたしがフリースタイルスキーをはじめた頃、日本には柿坂清作プロ、清水康久プロ、川辺義倫プロ、小林啓二プロなどというスーパースキーヤーたちがいた。彼らは輝いていて、わたしのヒーローであり、目標でもあった。しかし、そうしたスキーヤーの誰一人として全日本のシステムに組み込まれることはなかった。
 もし、彼らが各種目のコーチを引き受けていたら、日本のフリースタイル界は大きく変わっていたに違いない。
 そんなことを考えると、『日本は歴史を忘れることに長けている』と感じざるをえない。
 第二次大戦後の東アジアを見ればよくわかるだろう。アジアの国際問題の多くに、日本が歴史を忘れたため、もしくは忘れたふりをしているため…という根が感じられる。
 フリースタイル界でも同じことが起こっている。日本のフリースタイル界は、その根と断絶しているのだ。

 わたしが全日本コーチを解任された後も、哲(テツ)はコーチを続けていた。
Tree
 7年ぶりの再会のチャンス。
 彼は小樽のフェリー乗り場まで、朝早く訪ねてくれた。そして、遅れたわたしを、笑顔で迎えてくれた。
「今の全日本はどんなぐあいなんだい?」
 そう聞くわたしに、工藤哲史はこう答えた。
「もう、全日本のことはまったくわからんです」
「えっ」
 わたしは言葉を失った。
 工藤哲史が全日本から離れているとは。

 歴史から考え、日本のフリースタイル界が絶対に無視できない人々がいる。
 その一人は間違いなく工藤哲史であろう。なぜなら、彼はフリースタイルスキーの根、その一部であるのだから。
 彼の頭にはわたしと同じように白いものが混じりはじめていた。
 歳月をかけて、彼がやってきたこと、やっていること、それらすべてがフリースタイルスキーに栄養を与えている。

 わたしは時々、こんなふうに感じることがある。
『わたしがフリースタイルスキーを見つけたのではなく、フリースタイルスキーがわたしを見つけた』と。
『フリースタイルスキーに取り憑かれたのだ』と。
 それは言葉を代えれば『憑依された』とすら言ってもいい。そして、フリースタイルスキーの生きた道具となり、フリースタイルスキーに仕えてきた。
 間違いなく、工藤哲史もフリースタイルスキーに取り憑かれた一人である。

 わたしがコーチをやめて以来、外人コーチが流行している。これはフリースタイルスキーだけでなく、アルペンスキーでもサッカーでも同じ風潮が見られるものだ。
 しかし、ここで一つだけ言っておきたいことがある。

 フリースタイルスキーに関する限り、外人コーチは正当報酬を受けてきたということ。それにくらべ、日本人コーチはボランティアだったということ。
 外人コーチに支払われる契約金は半年契約でありながら一流サラリーマンの1年分に匹敵する。
 それに対し、日本人コーチはボランティアだった。わたしが全日本コーチとして世界を飛び回ったとき、わたしの日当は3500円。これは海外のみで、国内は日当1500円。それこそ、すべての情熱をつぎ込み、わたしが受け取った金額は年に35万程度だったと記憶している。もちろん工藤哲史も同じである。この時、わたしの活動を支えてくれたのは、全日本ではなくノルディカ・ジャパンだった。
 だから、フリースタイルスキーにおいて日本人コーチを、そのまま外人コーチと比べることは平等でない。
 同じスタートラインとゴールを与えられ、初めてレースは成立する。
 片や割のいいビジネスとしておこなうコーチと、片やボランティアワーク。
 その両者が比較され、「日本人コーチはダメだ」とされることには納得がいかなかった。今もいかない。
 長野オリンピックでモーグルが上げた業績は「外人コーチのおかげ」と報道されることが多い。しかし、ほんとうにそうだろうか。
 もちろん、当時のアメリカ人コーチは素晴らしいコーチであり、さまざまな面でよい選択だったと思う。もっと突っ込んで語れば、彼をコーチに推薦したのはわたしだったのだから…。わたしは彼と一緒に働けばよい結果を得られると思い、推薦した。
 しかし、同じ条件を与えられたなら、素晴らしい業績を上げたであろう日本人コーチも、複数存在していたと思う。

 これからの日本には可能な限り平等な社会を作る必要がある。平等にしようとする方向性が必要である。
 たとえば、たいした努力もしていないスキー場が債権放棄され、復活していく横で、血のにじむような努力をしながらも倒産していくスキー場の姿。そこに平等があるとは感じられない。それが日本の現状である。
 だからこそ、平等を実現するには「各自が泥まみれで戦う覚悟」がない限り、不可能であろう。そして、何よりも信念に生きる覚悟が必要となろう。
 わたしにどれだけ覚悟があるのか、自分に自信があるわけではない。しかし、ここまで生きてきた48年間に関して言えば、自分は「自分の心だけは裏切らなかった」と言うことができる。

 フェリーへのエスカレーターに乗ろうと、工藤哲史を見つめた時、こんな気持ちが心にあふれてきた。
『彼と一緒に、もう一度フリースタイルスキーをやってみたい』
 よきライバルである友人はいつまでも大きな意味をもつ…。
 そんなことを感じながら、北海道を後にした。
Hokkaido
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