Crime of Japanese Youth

少年犯罪について 2003年8月11日

 近頃、多くの少年による凶悪犯罪がニュースとして流されている。
 どの程度、少年の犯罪が増えているのかは知らないが、30年前にくらべると確実に多くなっているように感じられる。それとも、昔は単に発表されなかっただけなのだろうか。
 つい最近、沖縄で友達を殴り殺すという事件があった。これはいくつかの点で、現代の象徴とも言えるできごとではなかったろうか。
 この事件を聞いて驚くのは、リンチをはじめ1時間ほど経ったところで、休憩を入れていることだ。その時、少年の一人がソフトドリンクを買いに行き、いじめの末殺されることになる少年に飲ませている。そして、この休憩の際、少女が「…くん、大丈夫?」とも聞いている。しかし、この休憩後、ふたたびリンチは再開され、少年はなぶり殺しにされてしまう。
Tough_Boys
 酒鬼薔薇事件の衝撃から、わたしの心はまだ冷めやっていない。それにもかかわらず、同じような事件が続発する今、大きな不安がわたしに覆い被さってくる。
 そんな目で自分をふり返ってみると、思春期の初期、さまざまな成長のエネルギー、特に性的なエネルギーに翻弄された時期があったことを思い出す。その時は「性の目覚め」であるとは知らず、不思議な力によって、なぜか不安定な精神状態になり、その解決方法を知らなかった。それこそ暴力的になったり、自暴自棄になったり、自己嫌悪や、反対に極度の自己愛や、さまざまな感情に翻弄されたものだ。しかしそうした問題は少々残酷になったり、一人になって山に登ったり、泳いだりする行為の中で昇華されていったように記憶している。
Ginjiro_and_me
 たとえばあなたが農家に育ち、毎年稲を育てていたとしよう。そうしたなら、台風や日照りという災害が、どれほど暴力的で破壊的であるか、学ぶことができただろう。やがて、コツコツとした努力がどれほど大切なものかを、知ることができただろう。
 もし、フリースタイルスキーやスノーボードというスポーツにのめり込んでいたなら、上達する過程で、どのようなステップを踏んで上達したらよいのか、どのようにしたら怪我を回避できるか、失敗した場合の痛みはどれくらいのものなのか、そうしたことを学ぶことができただろう。また、滑るという快感を得るため、寒さや辛さに耐えなければならないことも知ることができたはずだ。極論するなら、山を滑るためには「登らなくてはならない」ことすらも実感したであろう。

 先日、リステルグループの会長である鈴木長治氏にお会いしたら、氏はつぎのように語っていた。
「もうスキーの時代は終わったな。今の若者はスキーなんてしないよ。寒くて、疲れて、お金までかかるんだから。今の若者はすべて携帯電話だ。思い立ったら電話するんだ…」
 計画性が失われ、衝動的行動に流され、テレビゲームのような仮想現実に生きる少年たち。
 こうした若者が、どのような未来を形作るのだろう。
 どんな未来であれ、意図するような未来を形作る努力をすること自体、彼らには難しいのではないだろうか。

 こうした衝動的な若者たちを作り出す日本という国家の病理。それはいったいどこにあるのだろう。
 たしかにアメリカやカナダの若者も、衝動的になりつつあると聞く。しかし、白人の中産階級には、強い意志を持ち、夢を追う青年が多く存在していることも事実である。また、韓国やマレーシアには高い理想を掲げる多くの若者がいる。もちろん、そうした若者は日本にもいるに違いない。しかし、その数を他の先進国にくらべたら、圧倒的に少ないように感じられる。
 わたしは自分の経験から、日本は夢を持ちづらい国だと感じている。そして、それ以上に「自分の命を生きることの難しい国」だと感じている。なぜならたくさんの人が、他人の人生に介入しようとする国だからだ。それは欧米のような歴史を持たないため、個の確立が行われていない理由にもよると考えられる。
 わたしの感じる日本の教育システムの問題。その大きなものが、親と教師にある。
 親が必要以上に子供に夢を託し、教師が子供に夢を託そうとする。もちろん、この行為自体を責めることはできない。
 しかし、人から与えられた夢は、すでに子供自身の夢ではない。それは「押しつけられた」「強制された夢」となる。そして、強制された夢を追って失敗したとき、それは「親のせい」とか「先生のせい」とかという言い訳を生みだしてしまう。
 人間は自分の夢を追ってこそ、責任を引き受けることができる。
 「医者になりなさい」と多くの子どもたちが言われ、そうした子どもたちが医者になった現代、どれほどの医者が自分の責任を意識しているだろうか。他人の夢を生き医者になった人間が、医者になり、診察をしてもなお、「責任は他人にある」と思っている場合が多いのではないだろうか。

 大人になりたくない子どもたちがあふれている理由は、楽しく生きている大人が、あまりにも少ないからではないだろうか。もし子どもからみて、大人が魅力的で美しく、生き生きしているなら、誰もが早く大人になりたいと願うだろう。自分の親たちが素晴らしく感じられたなら、子どもたちは結婚し、よい家庭を持ちたいと願うだろう。
 ほんとうにやりたいことを見つけること。それを追いかける道を照らしてやること。それらこそ親や教師や社会の役目であろう。どんな道にも障害があることを感じさせながらも、生きることの素晴らしさを教えてやること。それこそが、大人たちの役割であろう。つまり、「こうすべき」という回答を教えるのではなく、「どうしたら問題を解いていくことができるのか」という「生きる姿勢」を教えてやること。生きることの辛さを伝えるのではなく、生きることの喜びを教えてやること。できるなら、ベートーヴェンの音楽のように、茨の道の先には喜びが待っていることを教えてやるのがほんとうの教育なのではないだろうか。

「苦悩をつらぬいて歓喜へ」(ベートーヴェン)
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