現代文明のゆくえ  コンピューターとわたし
  Computer  and  I

 初めてコンピューターを触ったときの驚き。それは一生忘れられない思い出のひとつです。
 いくつものソフトを同時に立ち上げることができたり、いとも簡単に文字をコピーしたり貼り付けたりできること。たくさんの辞書を簡単に操作できること。それこそ何冊もの辞書が、小さなコンピューターに入ること自体が不思議でした。また、計算機やFAX、住所録など、事務仕事に必要なすべてが、小さなハードディスクに納められ、いつでも使うことができること。
 それまでワープロですら素晴らしい文明の利器と思っていたわたしに、コンピューターはまさに魔法の道具だと信じられました。
 もちろんワープロより操作をマスターすることは難しいのですが、「苦労しても使えるようになりたい」と思わせる大きな魅力がありました。

 初めてコンピューターを買ったのは1996年、ウインドウズ95です。
 数週間、使い方で四苦八苦しました。でも、どれほど苦労しても、「自由に使えたなら、想像もできないほど効率よく仕事できるに違いない」という確信がありました。それこそ、「コンピューターを自在に操ったなら、同じ時間で倍以上の仕事ができる」と信じられました。そうなれば、「より多くの時間を自分のものにできる」「好きな本を読んだり、好きな音楽を聴いたりできる」
 だからこそ、睡眠時間を削ってまで、コンピューターを学びました。
Computers
 …しかし、コンピューターを使うようになって数年が経ったころ、こんなことを悩んだ記憶があります。
「たしかに仕事は効率よくできるようになった。かつてとは比べものにならないほど便利にもなった。しかし、はたして自分の時間やゆとりは増えただろうか?」
 どう考えても、現実はより忙しくなっているのです。

 人類にとって現代文明とは、ちょうどわたしにとっての「コンピューター」のごとき存在ではないでしょうか。本来ならより「ゆとり」と「自由」を生みだしてくれるはずなのに、じっさいは忙しさを呼び込んでしまうのです。
 昔なら、手紙で依頼が来て、それを開封し、読み、しばらく考えてから返事を書き、封筒に収め、切手を貼り、郵便局に投函しました。返事が来るのは、早くて1週間ほども先。
 こうしたやり方が、ファックスで行われるようになった時、やはり驚きがありました。しかし、わたしにはなぜか、「仕事の品格が失われた」という感覚もあったのです。特に、あの「感熱紙」と呼ばれる紙が、わたしは嫌いでした。
 そして今、すべてがメールです。

 朝、必ずメールを開きます。
 スキースクールへの問い合わせを自分の電話とパソコンで受けていた頃、シーズンになると毎朝100通を越えるメールが来ました。そのため、メール処理だけで数時間を費やし、成すべき仕事ができなくなったこともしばしばありました。
 もしコンピューターがなければ、これは人を雇ってやらなければできない仕事でしょう。しかし、経済的ゆとりのないわたしは、あえて自分でやりました。コンピューターのない時代なら、不可能だったはず。それをコンピューターが可能にしてくれました。ところが、やろうと思えばできてしまうから、それだけ忙しくもなります。ひとつの自由を手に入れるため、大きなエネルギーを費やす必要があり、自分自身の時間は失われました。

 いくつかのスキースクールをまとめ、会社にしようと決断した理由のひとつにも、コンピューターの能力がありました。もちろん、それを使う『人』という存在が最大、かつ最重要です。が、やはり具体的手段としてのコンピューターが、なくてはならないものでした。
「ネットワークを作って情報交換すれば、複数の現場を集中的に管理することができる」
 そう考えたのです。当時の主任全員にコンピューターを勉強してもらいました。
 しかし、ネットワークに流れる情報量は日々増えていきます。そして、整理するだけでもたいへんな量になっていきます。そのまま放っておいたら結局、自分で自分の首を絞めてしまうことになってしまうのです。

 自家用車の普及や高速道路網の発達、コンビニやファーストフードの普及も同じようなものではないでしょうか。便利になればなるほど、忙しさは増していくのです。
 つい10年前まで、どこかで外食するということは、わたしにとって楽しみのひとつを意味していました。しかし今、外食と言うとき、それはファーストフードであることが多く、時間の節約を意味しています。ひどい時にはファーストフードを車で食べることすらあります。

 テレビや新聞、雑誌、インターネット、携帯電話。どれをとっても情報量は増すばかり。かつて、数チャンネルしか存在しなかったテレビも、今やケーブルテレビや衛星放送と数え切れないチャンネルが存在しています。
 そんなことを考えるとき、もしかしたら、「これからは『情報を獲得する時代』ではなく、『情報を切り捨てる時代』になるのではないか」と思うことすらあります。
RushHourCars
 情報は何のために存在するのでしょう。
 それは情報を得る個人の「生活の向上」や「幸福」のためではないでしょうか。
 情報や情報処理スピードの向上が、ほんらいは人間の幸福につながるべきではないでしょうか。しかし、現代社会において文明の進歩は、けっきょく個人の時間を奪い、より攻撃的で、より忙しい社会を生みだしています。
 そんな理由は「競争原理にある」とわたしは思います。
 自分が他人より頑張らないと、蹴落とされる。だから時間を費やし、競争に参加するのです。
 そんな社会に生きることが辛く、たくさんの人がホームレスになってしまったり、たくさんの子供たちが登校拒否になってしまったりしているのではないでしょうか。

 わたしが小さかった頃、1冊の本を読むことはたやすいことでした。休日や、それどころか平日ですら、一気に一冊の本を読み終えることができました。それが今、映画1本すら妨害なしに見るのは難しいことです。30分の交響曲すら、落ち着いて聴くことができません。ほとんど毎15分おきと言ってもいいくらい、携帯電話やメールなどが、誰かに注意を呼びかけます。

 数々の素晴らしい芸術作品。たとえばワーグナーやマーラーを聴こうと思ったら、数時間の集中した時間が必要です。いったい、どれだけの若者が、3時間、ひとつのことに集中できるでしょうか。
 小学生の頃、父の実家に行ったことがあります。お茶を栽培する専業農家で、農繁期には長時間の労働をしていました。しかし、そこに流れている時間はゆったりとして、ゆとりに満ちたものであったことを記憶しています。
 まったく電話の鳴らない家から、商売で忙しい自分の家に戻ったとき、「電話のない家に住みたい」と願った記憶があります。

 文明は人類に、より激しい競争をもたらしました。
 先進国の人々は豊かになればなるほど、忙しくなります。
 北米のエリートと呼ばれる人たちは日本人以上に忙しく、時間に追われています。
 かつて『モモ』という物語で、ミヒャエル・エンデは現代文明の姿を痛烈に批判しました。そこにはあたかもコンクリートを連想させる灰色の服を着た『灰色の男』が登場し、人々の時間を奪っています。
 歩いて移動した時代から自家用車で動く時代になり、人間はどれほど幸福になったのでしょうか。
 わたしは車で動くより、馬や馬車で動く方が、命に品格があり、豊かな時間が流れているように思えてなりません。何でも電気と石油を使っておこなうより、薪や風や川を使って生きるほうが、より美しい生命であるように感じられてならないのです。
 洗濯機や食器洗い機ができたなら、それを使って、時間が手に入らないのなら、それは本末転倒ではないでしょうか。
Winter
 幸運なことに現代文明は行き詰まっています。
 これまでの大量生産、大量消費の時代は行き詰まり、新しい生き方を模索しています。
 もし違った生き方を実現できなければ、人類はさまざまなところで行き止まりにぶつかり、急ぎ足で破滅に進むことになります。
 行き止まりは環境汚染やエネルギー問題、ゴミ問題や地球温暖化だったり、オゾン層破壊の問題だったりします。
 そんな行き詰まりに対して、アメリカのように『戦争』という手っ取り早い手段に訴え、もう一度物質文明の興隆を望む国もあります。また、これから物質文明のまっただ中に飛び込もうとする中国や東南アジアの国々もあります。
 しかし、すでに近代文明は行き詰まっているのです。

 もしかしたら、その先にあるのは「よりたくさん持つこと」ではなく、「できるだけ切り捨てること」ではないでしょうか。
 より大きく、より多く、より高く、より速くの時代から、より小さく、より少なく、より低く、より遅くの時代ではないでしょうか。この新しい方向性をシューマッハが、「スモール・イズ・ビューティフル」という本で打ち出したのは、もうずいぶん前のことです。

 もし、全人類が「狩猟民族的性癖を捨て、農民的価値観を持った」なら、そして「競争原理でなく、それを越えた和と輪の原理を手に入れたなら」、人類にはまだまだ未来があるのではないでしょうか。
 また、忘れてならないのは、もし競争するなら公平な競争でなければならないということです。
 わたしが生きてきた日本に、どれだけ公平な競争の場があったでしょうか。公平に見せかける社会の裏で、強烈な不公平が形作られていたのではないでしょうか。もし公平な競争もなく、和や協調もなかったなら、待っているのは社会の崩壊と破滅です。そうした時代をすごした日本は、まさに今、崩壊と破滅に瀕しているのではないでしょうか。
 もし、破滅したくないなら、まだ生き続け幸福や自己実現を果たしたいなら、自分の周りに新時代(ニューエイジ)の風を生み出す必要があるでしょう。そして、そんな風に乗る仲間の和を広めていかなければならないでしょう。

 人間に未来があるなら、きっと未来の価値観に賛同してくれる人は多いはずです。
 わたしはそんな未来に向かって、
「ゆっくりでもいいから、ネットワークという根を張っていきたい…」
 そう考えています。
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